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確乎不抜ノ戦闘記  作者: 鳥終螺
第一部 黒塊戒告部隊編
2/28

プロローグ 2 「黒の遣い」

 授業など耳に入る筈も無い。

 秋ノ葉は顔を緩めないようにする事で精一杯だった。

 毎回、約束の日を待つ間、彼はこのように浮かれに浮かれるのだが今回はそれがやけに顕著である。

 その理由は、二か月ぶりだから、という事が多くを占めるのだろうが秋ノ葉にしてみればそんな事はどうでも良い。彼にとって大切なのは、待っている時間では無く約束の日なのである。むしろ待っている間はじれったくもある。後三日も待たなくてはいけないと思うと彼の心の内は全くもって穏やかではなかった。

 どのようなプランにしようか、待ち合わせ時間は何時にしようか、どんな服を着て行こうか、どの映画を見ようか、というよりもう既に向こうが計画を練っているのではないか、もしかすると自分が何を考えて行っても無駄なのではないか、だけどもしお互いに何も考えていなかったら気まずくなってしまうのではないか、それなら一応厳密な計画を立てておいた方がいいのではないか……

 頭の中を思考がグルグル巡り、かえって彼の表情は真剣になっていた。斜め下をじっと見ながら机に座っているので教師や周りの人間からすると真面目に授業を聴いているように見えるのかも知れない。

 これでもし指名でもされたら彼が話を聴いていないという事が発覚してしまうのだが、幸い彼が指される事は無かった。さらに言えばそんな事を気にしている暇も彼には無かった。

 昼休みになっても秋ノ葉が席を動く気配は無い。周りの人間は流石に少し不審に思ったようだが、クラスにはいつも本を読んでいるような静かな人間が少なくないのでそこまで目立つ訳では無かった。

 脳内であまりにシュミレーションし過ぎたせいか、彼は少し頭痛を催した。

 ただ、考え過ぎという理由だけでは余りにその痛み方は合わな過ぎた。別に激痛という訳では無い。

 異様なのだ。痛みと言うよりは頭の中に何かが入ってくる感じである。

 急に太陽が眩しくなって、秋ノ葉はカーテンを閉めた。クラスには人があまり残っていなかったためその行為自体はそんなに不思議に思われる事は無い。窓際の生徒がカーテンを閉める事をわざわざ気にする人間はいないだろう。

 陽射しが当たらなくなった途端、彼の頭痛は収まった。

 どうやら熱中症の前触れだったようである。その割には痛み方がおかしかったが。

 それでもそんな僅かな違和感などやはりどうでも良いのであった。約束の日までに具合を悪くしないようにしなくてはと自らを戒め机に蹲り少し睡眠をとる事にする。

 カーテン越しの光が今度は心地良い。暫しの休眠のつもりが、授業が始まった後にまで続き教師に注意されるまで気づかなかった。

 多少笑われたが、寝ている生徒を起こすという情景もまた、ありふれたものであった。

 結局、――当然の事であるが――何も頭に入らなかった彼は、いつの間に終わっていた授業の道具を片付け、いつの間にか無人になっていた教室を後にした。

 どうやら今日は疲れているらしい。彼はそう思った。

 ただ浮かれているだけで頭がクラクラしたりはしない。もう一度強く自分を律して、体調管理を心掛けようと決心した。

 本当は下校も彼女と一緒にしたいのだが、それを誰かに見られてしまった場合、相手の名前が発覚してしまう可能性が高いのでお互いに自粛する事にしている。このような日は特に残念なのだが、会えない時の辛さはきっと大切だ、と自身を説得することによって門を出る事にする。

 夏というだけあって二時を過ぎても十分に暑い。教室内で結構の間放心していたようで時計の針は既に五時を回っているが一向に暗くなる気配が無い。

 暗くない方が当然下校には適しているためさっさと帰った方が良い。当たり前の事を、さながら何か重大な事を決める時のような面持ちで決定した秋ノ葉は真っ直ぐ自宅を目指した。

 そこで今朝のどうでもいい思考を思い出す。確かアスファルトは良くない、という結論に至ったはずだ。そしてその答えは至極正しく思える。何故なら、今現在、夕方になっても秋ノ葉の足に伝わる熱は容赦が無いからである。

 やはり都会はあまりよろしくないな、と若者らしからぬ事を考えながら、それでも歩き続けた。真っ直ぐ、家に帰るために。

 真っ直ぐ、と言うと物理的に真っ直ぐな気がするがそういう意味では無い。という事は誰もが知っている事だ。

 では何故わざわざ、真っ直ぐという言葉を使うのだろう、と秋ノ葉は考えだした。

 真っ直ぐ、というのは当然、間に何も挟まず、という意図を含んでいる。すなわち寄り道しないという意味だ。

 ならば寄り道しないで帰る、でいいではないか。

 道は真っ直ぐではないのに気持ちだけ家に真っ直ぐだからと言って真っ直ぐという言葉を使うのはどうかと思うのである。

 しかしまた意味の無い事を考えてしまったな、とつくづく反省しながら首を前に向けた。

 暫くは何も考えずにいようと思い無心でひたすら歩いていたが気づけばもう帰宅の道半ばまで来ている。秋ノ葉の家は言うなれば郊外にあり周りには家も少ないのでこの辺りまで来ると都会のような人だかりは無くただ閑静な雰囲気が伝わってくるだけである。秋ノ葉の通う高校がある街は都会の中では田舎の部類であるからその郊外ともなれば人があまり見られないのも当然である。

 少し寂しい気もするがそれよりも落ち着く、と言う方が彼には適していた。

 夏至は過ぎているので六時にもなると辺りはオレンジ色の光に包まれ始める。

 ラグナロクの気分を味わいながら秋ノ葉は一人ニヒルに浸り街の方を眺めた。別に一人なのだから格好つけてもいいだろうと言い訳をして暫く夕日を眺めてみる。

 綺麗だ。

 久しぶりに夕日を見て、秋ノ葉は素直な感想を漏らした。勿論、誰も聞いていないはずであるし、実際に聞いている人はいなかった。

 しかし折角黄昏の気分を味わっていた彼の元に突如厄災が降りかかる。いや、降りかかるという言い方はあまり合っていなかった。

 何故ならそれは、夕日のある辺りから注がれたその光は、余りにも黒くて、真っ直ぐだったからである。

 突き刺した、という方が現実味を帯びている感じだ。とは言えそれは物理的なものでは無い。

 彼にはそう見えた、というだけである。

 それと同時に先程の頭痛が彼を襲った。感覚的には同じである。が、その度合いが完全に違った。先程よりも明らかに、頭の中に何かが入っていく感じがしたのだ。

 秋ノ葉はあまりの痛みに悶えた。細い道の、誰も通らないような道の真ん中で、悶えた。

「がっ……!」

 地面に顔を擦り付けながら必死で<黒い光>の方を向くと、そこにあったのは綺麗な夕日などでは無かった。

 <黒い光>が放出されるのにふさわしいような<黒い塊>が宙に浮いていたのである。球でも無く、直方体でも無く、三角錐でも無い。その他彼が挙げられる様々な立体の名称を以てしてもその物体に形を求められない。けれど、辺りに転がっている石ころのような適当さは見られない。正に<黒い塊>だった。

 少し痛みが引いた所で、彼は本能的に家に向かって走り出した。もう振り返る事はせずに全力で家を目指した。

「はあ……!はあ……!」

 走っている内に痛みは自然と引いてきた。これはあの物体から離れたからなのかどうなのか彼にはよく分からなかったが夕日と同じ位置にあるあの物体から少し距離を置いただけでそんなに違いが出るとは思えない。しかし今はそんな事になりふり構っている場合では無いのだ。

 怖い。

 とにかく怖かった。人の根源的恐怖を煽るような怖さである。

 そんな恐怖に駆られる中、車の通りが少ない道路を目の前にして信号が赤になった。当然止まる筈も無い。彼は一切躊躇わずに横断歩道を渡り切った。

 自分の肺の限界も忘れて秋ノ葉はただただ家を目指す。

 一軒家が幾つか並ぶ所まで来て、秋ノ葉は漸く少し落ち着く事が出来た。

 切迫した表情で家族に会ったりでもしたら心配させてしまうだろうという事に思い至り、痛みの引いた頭を押さえながら玄関の前に立った。心安らぐ場所である。しかし鍵を開けようとした刹那、今度は激しく体を揺さぶられるような感覚に陥った。

 そして一瞬目が眩んで、視界を黒い光が覆った。

「っ……!」

 現象が収まると、何だか非常に落ち着かない気がしてくる。自分の家の前に居るのに不自然に緊張してしまうのだ。ここは確かに自分の家、自分が帰るべき場所。そう頭の中で何度念じても掴みどころの無い不安は膨張していく一方である。

 けれどこんな所でいつまでも突っ立っている訳にはいかない。きっとすぐに穏やかな家族の顔が見られる。そう思って鍵を使ってドアを開けた。

開けてしまった。

「ただいま」

 大きな声では無いが、少し奥に居ても聞こえる位の声で言った。

言ってしまった。

 いや、結局開けても開けなくても、言っても言わなくても結果は変わらなかったのだと思うが。それでも今の行動が秋ノ葉の心を深く傷つける方法であったのは間違いない。

 ただいま、と言って、おかえり、と言われないのは、酷だ。

 奥から出て来た秋ノ葉の母の第一声は、

「……あの、どちら様ですか?」

 だった。彼の目の前にいるのは明らかに彼の母親である。見間違える筈も無く母親だ。

「な、何言ってるんだよ母さん。僕だよ、僕」

 目を一杯に見開いて、震えながら言った。

「どこかでお会いしましたか? あ、もしかして喜井華のボーイフレンドかしら。とってもフレンドリーな方なのね。初めまして。私は玄冬藤喜井華の母親の虹子です。宜しくお願いするわ。 あなたの名前はなんて言うの?」

「……え、嘘だよね、母さん、僕だよ! 秋ノ葉だよ!」

 必死に訴えかける。

「? 以前どこかでお会いしましたか?」

 ここで座り込んで動けなくなってしまっていたらまだ良かったのかもしれない。ここで必死に説得して、自分の事を思い出してもらえば良かったのかも知れない。

 ただ彼はそうしなかった。目の前の非現実的な事象に――自分の事を忘れている母親から――目を背けた。

「ぁ……あぁ、ぁぁ……あぁ……あぁぁぁ! あああぁぁぁぁあぁああぁあああ!」

玄関を飛び出した。

母親はただ、首を傾げるだけだった。



「夕方に出るとはまた珍しいですね」

 空色のパネルが規則正しく並べられた、近未来の研究室のような部屋。普通の学校にある体育館程の広さを持つその部屋の巨大なパソコン――壁に張られているのでモニターとも言える――を前に忙しなくキーボードを叩く女性が呟いた。

 歳は二十歳前後で、座っているため目立たないがかなりの細見である。銀髪のストレートヘアーは肩の辺りまで垂れ、青く輝く両目は彼女の目の前にある小さな画面の光を反射している。

 仕事の出来そうなクールビューティーである。

「君だって『EVE』タイプだろう、<曲水否>?」

 傍らに立つのはサラリーマン風の男だ。薄く茶色がかった髪は短く切りそろえられており黒縁の眼鏡を掛けている。体格は良く、存在感の濃い印象を受けるが、だからと言って筋骨隆々という訳でも無くスレンダーな雰囲気を纏っている。

「最近はずっと『ADAM』タイプだったという事を言っているのです、私は」

 手の動きは止めないが彼女は冷静にそう返した。

「そうだね、でもまだ確実に『EVE』タイプだと決まった訳じゃ無いんだろう?」

 男はテーブルの上に置いてある地図を片手に、もう一方の手でペットボトルを掴んだ。

「いえ、ほぼ確実に『EVE』タイプでしょう。波動感知器021が的確に判断しています。今回は誰が行くのですか?」

 一通りの作業を終え女性は席を立つと男の傍では無い方の机の方へ歩きそこの椅子へ座った。

 相当疲れた表情をしているため、恐らくは徹夜で何かの作業をしていたのだろう。その証拠に、パソコンの椅子に座っている時は目立たなかった隈が電灯の光の下に晒されている。

「<豪細槍>はどこへ行った?」

 眼鏡の男が奥のソファーで寛いでいるもう一人の女性に声を掛けた。

「よしのんなら今日は来てませんよ~?」

 眠そうにしながら大きなソファーをベッド代わりにゴロゴロしている女性もまた歳は二十歳前後のように見える。ただ一生懸命働いていたであろうクールな女性とは対照的に、ソファーで寝転がる女性の方にはやる気が見られない。

「<射眩光>、普段は良いですが、任務中にコードネーム以外を出してはなりません」

 銀髪の女性が隈を気にしながら注意する。

 眼鏡の男の方はモニターを見つつもあまり緊張している感じは無い。恐らくこの場にいる三人の中では一番年上であろうこの男の貫録さ故だろうか。貫録といってもまだ三十歳に達しているかどうかという年齢なのだが、とても響の良い低音の声が彼の荘厳さを際立てている感じがあるのだ。

「えー、でも私、コードネーム使うの嫌いなんだよね。ね、オリギン!」

 歳は大差無いはずだが二人の会話を聞くと姉妹をイメージしてしまう。

 目が少しは覚めたのか、ゴロゴロ転がっていた女性(少女と言ってもギリギリ通る)がニッコリ笑った。

「誰がオリギンですか……」

 イラッとするのにも疲れたような表情で銀髪の女性は溜息をついた。

 モニター付近では眼鏡の男がニコニコしながらペットボトルのお茶を飲んでいる。

「<豪細槍>は何故居ないんだ?」

 ペットボトルを机の上に置いた眼鏡の男は西側の壁付近のクローゼットのようなものから何やらスタンガンのようなものを取り出しながら言った。

「だってよしのんは不良社員ですから!」

 完全に覚醒した少女(と言ってしまおう)は首を回しながら銀髪の女性に近づいて行く。

「ここは会社ではありま……な、何をするのですか!」

 元気になった少女が銀髪の女性に抱き付いて首を振っている。もし尻尾がついていたら高速で振っている感じである。

 苦笑いも出来ない女性はただ戸惑うばかりであるが眼鏡の男は着々と準備を進めていた。

 彼の手には防護服のようなものと先程のスタンガンのようなもの、それに小さな通信機が握られている。しかしスタンガンと通信機はともかく、防護服の方は彼が着るのには小さ過ぎるような気がする。

「はいそこ、百合フィールドを作っていないでやる気を出し給え」

 そうは言うが彼の表情は実に穏やかである。何がそんなに彼を穏やかにさせるのかはよく分からない、というより言及しないが、彼は全く緊張していないのだった。

「ゆ、百合フィールドなんて作っていません! これは<射眩光>が勝手に……」

 そう言っても結局振りほどかない辺り実は結構温厚なのかもしれない。

「そうか、じゃあ……今回は<射眩光>に任せようか。相手は一人だしまだ目覚めたばかりだから多分力の使い方すら分かっていない。しかも『EVE』タイプだからね。仲間が出来るのは良い事だよ。やはり早期発見は大事だね」

 眼鏡の男は彼の持っているものを全て少女に渡した。どうやら最初から自分で行く気では無かったようである。

 隙を見て銀髪の女性は少女の束縛を逃れるとまたモニターの方へと戻って行った。

「えー、私ですか? オリギンは来てくれないの? って言うか双六ちゃんは?」

 不満そうに駄々をこねる少女だが、聞き分けが無い訳では無いようで眼鏡の男から一式を受け取ると用意をし始めた。

「彼女は、今日は非番だ。ああ、あと救井兄妹は今二人で楽しくお出かけ中だ」

「何してんだか、あの兄妹は。まあ、いいか。じゃあ、行ってくるであります!」

 張り切って少女は言ったがすぐに銀髪の女性に止められる。

「待ちなさい、<射眩光>。あなた、場所がどこか分かるのですか?」

 銀髪の女性は静かに語り掛ける。二人の距離は結構あるがそれでもその声はしっかりと伝わっていた。

「……ああ、うん……分からない、です……」

 トボトボとモニターに近寄る少女に苦笑し、眼鏡の男も一緒にモニター付近へと歩いて行く。無駄に(本当に無駄なのかは知らないが)広いスペースのせいで出口とモニターの間に地味に距離があるのだ。

「現在ターゲットは四番通りを降下中、背地藻川方面に向かっています。性別、年齢、身体的特徴などはまだ分かりません。この人間が<黒塊光>を浴びたのは午後六時二分頃、能力発現は午後六時十七分頃、つまり今から五分前です。僅か十五分で発動していますね。発動したのは恐らくこの人間の自宅と思われる家の前です。この住所を調べればこの家の誰かという事までなら調べがつきますが」

「今までの経験から行くとこの人間の力は物理的に危険なものでは無いようだが、精神的には危険な可能性があるな」

 少し険しい顔になった眼鏡の男は小さい画面の方を熱心に見ている。

「はい、しかしまだ力の発現から五分程しか経っていない今なら比較的安全でしょう。……出ました、あの家に住む人間のリストです。四人家族のようですね。玄冬藤豪、四十七歳、妻虹子、四十歳、長男秋ノ、葉? 変わった名前ですね、ええ彼が十六歳、長女喜井華、十四歳。今までの傾向からして三十路を過ぎた者の可能性は低いです。故に今回の発現者は長男か長女のどちらかでしょう」

「名前だけだと認識出来ないな。彼らの通っている学校にアクセスして顔写真を入手したほうが良い。すぐ出来るか?」

 眼鏡の男が問う。

「出来ますが……こういう仕事は本来<魔王眼>達の仕事でしょう。何故私が……それで昨日も寝られなかったのに……」

 仕事の出来るクールビューティーは中々に大変なようだ。しかし今は残念ながらそんな事を気にする暇は無く、彼女は仕方なく仕事をする羽目になる。

 それとは別に、勝手に学校にアクセスするのは不法アクセスというやつではないだろうか。

「こちらが長女、こちらが長男ですね」

 小さな画面と同時にモニターにも二人の顔が大きく映し出された。妹の方は万人受けしそうな陽性の美少女である。そして秋ノ葉の顔は実によく似ていた。この場合、妹が兄に似るという方が正しいのかも知れないがとにかく二人は似ていた。

「…………今はさ、緊急事態かも知れないけどさ、敢えて言ってもいい?」

 今回の任務(?)を担当する、いわば情報を一番的確に受け取らなくてはならない少女が呟いた。

「な、何でしょう?」

 銀髪の女性も少しばかり動揺している。

「あのさ…………何で兄の方が可愛いの!?」

 ご尤もである。パッと見るだけでは、いやじっくり見ても、両方女にしか見えなかった。髪型なども考慮して、長男の方を指さしてこちらが男性ですよ、と言えば何とか伝わるかもしれないが明らかに男の娘だった。

「そ、それは今は関係無い様に思われます。と、とにかく早く出撃準備を済ませて下さい。ターゲットは走って移動しています。理由は分かりませんが……」

 大分揺さぶられながらも銀髪の女性は少女に言った。が、少女はもう準備を済ませている。

「もう準備なら出来てるわよ? ……ね、実際どっちだと思う?」

 急いでいる筈ではあるが少女はそんな事を訊いた。

「走る速度的には……おそらく全速力のようですが……結構速いので、長男の方ではないかと。ただそう決めつけて探すのはやめて下さいね。私も通信で逐一ターゲットの場所を報告しますから……って早い!? ターゲットは既に背地藻川に到達しています! ええ、と、川の目の前で立ち止まっています。今の内に捉えた方がいいですね。<射眩光>、急いで行ってきて下さい」

「分かったわ!」

 <射眩光>と呼ばれる彼女は勢い良く広大な空間を飛び出していった。

 女性二人のテンションについていく事が出来ていない眼鏡の男は、しかしながら困惑した様子は無く、微笑を浮かべたままである。

「元気がいいねぇ、若者は」

「あなただってまだ二十代でしょう。それに、それはさりげない嫌味ですか。ああ、二歳の差って大きいですよね。私はもう二十歳を超えてるのに……」

 表情は崩さずに愚痴を言うのでどちらかと言うと彼女の方が嫌味っぽく聞こえてしまう。

「私はもう二年で三十路だよ。それに比べて君はいいじゃないか。まだ二十一だろう? 私としては羨ましい限りだね」

 椅子に腰を下ろした眼鏡の男は机に置いてある本は読み始めた。

「でも、彼女の方はまだ十九ですよ。二十歳になっていないのですよ」

「そうだね、やっぱり若いっていうのは良いね。十年前に戻れたらどれだけ幸せか……」

 彼の顔が少し曇った気がした。



 ドチラサマデスカ。

 頭の中でこの言葉が反芻される度、秋ノ葉の心は酷く締め付けられる。

 今までの十六年間は何だったのか。今までの笑顔は、今までの思い出は何だったのか。

 忘れられてしまった原因は分からない。けれど現状が現実だという事は何故だか確信していた。家の前で見たあの<黒い光>によって異常なくらいの不安に襲われた事と今起きている事が無関係だとも思えない。

 けれど、だからと言って、現実を簡単に呑み込めるほど秋ノ葉の精神は強く、あるいは狂ってはいなかった。

 だから彼は走った。全速力で走った。そうでもしないとおかしくなってしまいそうだったから。さっきは<黒い塊>から逃げていたのに、何故今は逆にそれを追いかけているのだろう、と思う。何故だかもう怖くない。あれだけ怖がっていた<黒い塊>は今も確かに頭上にあるというのにそれを追いかけていた。

 心臓の音が頭の裏にまで届くがその音すら彼の息遣いに掻き消されていく。

 まるで自分の存在が無くなってしまうのを恐れるように、転びそうになってもその足が止まることはなかった。

 その瞬間、運が良かったのか悪かったのか、彼はクラスメイトの男子生徒の姿を確認した。全速力で走っていたのにも関わらず見えてしまった。

「後藤!」

 彼は急ブレーキを掛け男子生徒に話しかけた。

「……?」

 不思議な顔をしている。

 母親と同じ顔だ。

 他人を見る顔。

「……あの、人違いじゃないっすか? いや確かに俺は後藤って言うんすけど」

 間違いなく後藤であると彼は思ったが、同時に、忘れられているという事にも気づいてしまった。

「あぁ……!す、すまない……」

 怯えるのも馬鹿らしくなり、それでもスピードは緩めずに、秋ノ葉は走り続けた。

 いよいよおかしくなってきたと自覚する。おかしくなりすぎて逆に冷静。どうやら秋ノ葉の常識メーターは完全に壊されたようだった。

 落ち着きは取り戻せたが、それによって場違いな、しかし非常に重大な事に気づいた。

 玄冬藤秋ノ葉は十六歳である。子供である。故に家族がいないと生きていけない。

 家族に忘れられた今となっては、彼はこの世で生きていくことが出来ない。

 しかし、思ったよりはその事にショックを受けなかった。

 先程の後藤の反応を見る限り、自分は恐らく全ての人間から忘れ去られている。その方が、彼にとっては死ぬことより何倍もつらかった。

 もし死んでも誰かが覚えてくれさえすれば、その人の中でまだ自分は生き続けられる。

 生きていても誰も覚えていてくれないのなら、自分は死んだも同然だ。

 単純にして明快。彼の存在意義はそれに気づいてしまった今この瞬間、無くなった。

 親も、妹も、クラスメイトも、先生も、そして、名前も知らないあの子も。全員自分の事を覚えていない。

 天涯孤独でも、家族は作れる。引っ込み思案でも仲間は作れる。

 ――でも僕はどうしようも無いじゃないか。

 本当の意味での孤独は、誰の記憶にも残らない事。

「僕は……もう生きていないも同然なんだ。」

 目の前に流れる川を眺めながらそう呟いた。

 川は一方向に流れている。まるで時の流れの様に、逆らうことなく流れている。

 ならば、自分もその流れのままに生きて行こう。

「僕は……要らない人間なんだ……」

 もう一度、呟いた。

 死には意味がある。生にも意味がある。

 ――だけど、僕の生には、意味が無い。

 川の淵に、一歩踏み出す。

秋ノ葉の靴を流れる水が濡らしていく。

彼の頬を涙が伝っていく。

「僕なんて、この世に必要とされていないんだ!」

「そんなことは無いわ」

 後ろからふと、凛とした声がした。

 振り返ると、丘の上には黒い服を纏った一人の女性が立っていた。

 <黒い塊>を背にして立つその姿はまるで。

 

 《黒の遣い》のようだった。


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