足止め
案内をしてくれている人形は、赤いドアのドアノブに飛びついた。そしてドアノブを回しながらちらっと優雨を確認する。
ドアが開き、人形は進んでいく。優雨はその後を追った。
ドアの先にはたくさんのドアがある廊下があった。
「そういえば、ここはさっき通ったな」
人形はくるりと回転して優雨を見つめる。
「この廊下のドアは、偽物に見えるものでもちゃんと中に入れるのよ」
そう言って人形は歩き出す。
いくつも並んだ歪なドア。前に通った時は恐怖に押しつぶされそうな優雨だったが、今は違う。人形たちと行動しているからか、安心して歩いている。
人形が急に立ち止まった。そして横にあったドアノブに飛びつく。ドアは軋みながらゆっくりと開いた。
ドアの先は真っ暗で、何も見えない。
人形がドアノブから飛び降り、優雨を見た。
「ここから飛び降ります」
足元を見ると、床がなかった。真っ暗で底が見えない。
人形は躊躇うことなく飛び降りた。
優雨は少し尻込みして、目を閉じて飛び降りた。
優雨は落ちていく時、自分が入ったドアを見ていた。ドアはどんどん小さくなっていき、しばらくすると見えなくなった。どれだけの高さから飛び降りたのか、優雨は落ちながらかなり不安になった。
視界は黒一色に染まる。
ジェットコースターが下っていく時のような、ムズムズした感覚が優雨を襲う。
しばらく落ちて、少しずつ視界に光が入りだした。
この時初めて、優雨は自分がとても高い所から落ちていたことに気がついた。
優雨は今、迷路のように入り組んだ構造の部屋に落下している。眼下に広がる迷路は、薄い霧が立ち込めていて視界が悪い。
薄い霧の中、二つの影が別々の場所で動いていた。一つの影を、もう一つが追っている。
「お兄さん、私の手に掴まって」
人形が手を伸ばして言った。
優雨は人形の手を握る。すると人形と優雨の体は、追われていた影の方へ飛んで行った。
優雨と人形は、追われていた影の少し前に降りた。
迷路の中は、上から見ていた以上に視界が悪い。
「お兄さん、来たよ」
人形は正面を指差しながら言った。
その直後、霧の中から何かが飛び出した。それは優雨にぶつかって倒れこむ。
「……早苗」
ぶつかってきたのは早苗だった。
「優雨……くん?」
早苗の目にどんどん涙が溜まりだす。
早苗はその涙がこぼれ落ちる前に優雨に抱きついた。
「よかった……本当によかった……」
優雨はそっと早苗の頭を撫でた。
その様子を見ていた人形が、優雨のズボンの裾を引く。
「お兄さん、ちょっとまずい状況みたいです……」
人形は霧の中を指で指し示す。しかし優雨は霧の先にあるものを認識できていない。
その時だった。遠くから濡れた何かが地面に当たる音がする。
「お姉さん、私があげたペンライトを使ってください」
人形は早苗を見ながら言う。
早苗はペンライトで光を生み出した。それと同時に霧が晴れていく。
霧が晴れても周囲は薄暗かった。先ほど早苗が走ってきた通路からぐちゃぐちゃと音がする。
薄暗い通路の奥から音が近づいてくる。
音を立てていたのは朱音だった。
「待ちなさいよぉ……ねぇ……」
朱音の姿を見た優雨は絶句した。
絶句している優雨の様子を見て、朱音が不気味に笑う。
「あぁ……優雨…会いに来てくれたの?」
ジリジリと距離を詰める朱音。
その悍ましい姿は優雨の心を恐怖心で満たす。
優雨は感じたことのない最大級の恐怖に直面しながら、これまでのことを思い返した。
この世界に迷い込んで、得体の知れないものに襲われたり、暗い廊下を一人で歩いたりした。通常の生活では感じることのない凄まじい恐怖をここに来るまでに感じてきた。
「俺、免疫がついたのかな」
優雨は小さく呟く。
今、優雨の心は恐怖でいっぱいだ。しかしその恐怖を感じながらも、今こうして冷静にものを考えることができている。
「俺は早苗を迎えにきたんだ。お前に会いにきたんじゃない」
優雨ははっきりとした口調で言った。その言葉を聞いて朱音の表情に陰りが出る。
「……気に入らない。どうして優雨がお姉ちゃんにそんなに優しくするのかわからない」
朱音は歯をギリギリと鳴らす。
優雨は早苗を自分の後ろに隠れさせる。
うっすらと鉄のような匂いが辺りに充満し始めた。
「もういい。決めた」
朱音は自身の下半身を引きずって優雨たちに近づいた。
「お姉ちゃんを殺して、優雨をもらう」
その言葉とともに、朱音は凄まじい速さで優雨たちに接近し始めた。
身の危険を感じた優雨は、早苗の手を引いて走り出す。
鉄臭いような生臭いような、なんとも言えない悪臭がどんどん濃くなる。
優雨は振り返らずに一心不乱に走った。捕まったらまずい。その気持ちだけで早苗を引き続ける。優雨は一瞬、このまま行けば逃げ切れるか、と考えた。その時だった。早苗が盛大に転んだ。
「早苗!」
優雨は急いで早苗を立ち上がらせようとする。早苗も自分で立ち上がろうと必死に体に力を入れていた。
「どうしよう、優雨くん。足が動かないよ」
早苗は涙目になって言った。
早苗の足は痙攣している。足の疲労がピークに達してしまったのだ。
「くそっ……考えろ……俺……」
予想外の事態と迫る恐怖、さらにどんどん濃くなる悪臭が優雨を襲い、冷静さを失わせていく。
どうしようどうしようどうしよう。
優雨は頭を抱えて動けなくなった。
どんどん周りの音が遠退いていく。早苗の声、背後から迫る音、自分の呼吸の音、心臓の音。冷静な思考力が欠如してしまった。
「お兄さん!しっかりして!」
肩に乗っていたぬいぐるみが大声をあげた。その瞬間、遠退いていた音が戻ってくる。
「お兄さんがしっかりしなきゃ、どうにもならないよ!」
ぬいぐるみがそう言いながら優雨の頬を抓る。
その痛みで優雨は冷静さを取り戻りた。
「ありがとう。ここでお願いを使わせてもらうことになりそうだ」
優雨はぬいぐるみに言った。
「朱音の足止めはできるか?」
そう言われて、人形は腕を組んで難しい顔をした。
「無理だね……この世界の支配者を、私たちは止められない」
優雨は間髪入れず、次の質問を投げかける。
「じゃあ、この世界の出口がどこにあるかわかるか?」
ぬいぐるみは激しくうなづいた。
「わかるよ!」
「じゃあ、早苗をそこへ連れて行ってくれ」
ぬいぐるみは人形と見つめ合い、アイコンタクトをとった後で優雨を見る。
「わかった! でも、お姉さんを連れて行くとなると時間がかかっちゃう」
優雨は表情を変えず、立ち上がった。
「俺が朱音を止める」
その言葉を聞いて、早苗は優雨のズボンの裾を強く掴んだ。
「ダメだよ! 私だけでいくなんて嫌だ!」
優雨は優しい笑顔を早苗に見せた。
「大丈夫、すぐに追いかけるから」
優雨は早苗の手を解き、来た道を戻り始める。優雨の先には朱音が迫っていた。
「行ってくれ!」
優雨が大声で叫ぶ。
それとほぼ同時に、どこからともなく何体ものぬいぐるみが現れて早苗を持ち上げた。
「わかった!」
ぬいぐるみたちはその声と同時に早苗を運び始める。
「いや! 優雨くん! 優雨くん!」
早苗が泣きながら叫ぶ。
どんどん優雨と早苗との距離が伸びていく。早苗が曲がり角を曲がる時、優雨は立ち止まって振り向いた。
優雨の表情は、恐怖のせいか少し引きつ言っていた。引きつりながら、一生懸命に笑顔を作って口を動かす。声は聞こえなかったが、早苗には口の動きで優雨が何を言ったかが理解できた。
——さよなら。
優雨は早苗が曲がり角を曲がり切るのを見届けて、朱音の方へ歩き出した。




