暗闇に潜む何か
動かなくなった優雨を見ながら、早苗は自分を責めた。
もう少し早くここに来ていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。優雨を救えたかもしれない。
早くここに来ていれば優雨を救えたという確証はない。しかし、早苗の頭の中で「もう少し早く着いていれば」という考えが蔓延って消えない。そして、その考えが早苗の瞳からどんどん涙を溢れさせていた。
早苗は優雨から離れ、立ち上がった。そして涙を拭き、ため息を一つ吐く。
「進まなきゃ」
早苗は呟いて部屋を出ようとした。しかし、優雨を置いていっていいのだろうか、もしかしたら優雨が目覚めるかもしれない。その考えが早苗の後ろ髪を引き、振り返らせた。
大きな絵の下で優雨が座り込む形で動かなくなっている。
この時、早苗の脳裏にちらっと何かが過った。
「これ、どこかで見たことが……」
どこかでこの光景を見たことがあるような、既視感に似た感覚が早苗を支配した。
しかし、その既視感に似た感覚はすぐに消えた。
「朱音のスケッチブックだ……」
早苗は、つい数時間前に優雨と見たスケッチブックに、これに似た絵があったことを思い出した。
その絵では壁に寄りかかった人が少女に何かを取られていた。
「もしかして……心臓を取られたの……?」
早苗は優雨の元に駆け戻り、優雨の息を確認した。
優雨は息をしていた。早苗が胸に耳を当てると心臓の音もしている。
優雨の胸には黒い穴が空いているが、体に物理的な穴が空いているようではなかった。
早苗が恐る恐る穴に手をいれてみようとしたが、入らない。
優雨は何を抜き取られたのか。早苗の中に新しい疑問が浮上した。
「この世界じゃ、常識は通用しないから……常識を捨てて考えなきゃ」
胸に空いた穴を見て、早苗は首を傾げた。胸、心臓……どんどん関係のありそうなものを連想していく。
「感情……心……?」
常識的に考えればあり得ない話だ。心を抜き取るなんて、実体のないものを抜き取るなんてことはできるはずがない。
しかしこの世界では常識は通用しない。
「心を抜かれた……ってこと?」
まだ優雨は助かるかもしれない。早苗の心の中に希望の光が生まれた。とても小さい光だったが、早苗を動かすには十分な光だった。
早苗は立ち上がって優雨を見つめる。
「ちょっと待ってて、すぐに優雨くんの心を取り戻してくるよ」
そう言ってドアに向かおうとした。
その時、早苗は正面の絵に違和感を感じた。
遠くから見ればただの絵に見えたそれだったが、近くで見ると絵の表面が揺れている。
早苗は思わず手を絵に当てた。
すると手は絵の中にスッと入った。早苗は驚いたが、すぐに落ち着いて絵の中に入ってみることを決意する。
「よし」
早苗は一気に絵の中に飛び込んだ。早苗が絵に入りきった直後、絵は大きく揺れ始めて、徐々に薄くなっていった。そしてすぐに絵は消えてしまった。
絵の中には短い廊下があった、数十秒で端から端まで行けるほど短い。
奥にはドアが一つ。これまでと同じデザインのドアがある。見た目、色、大きさ。全てが同じ。同じはずだった。
「どうしてだろう……あのドア、怖い」
ドアが放つ独特の何かに、早苗は圧されていた。
それでも早苗は一歩ずつ進んでいく。しかし、たったの一歩がとても重い。一歩を踏み出す数秒が、早苗にとってとても長いものに感じられた。
廊下に響く足音。体の中に響く心臓の音。単調な二つの音が早苗の緊張感を増幅させる。
ドアの正面に立つと、廊下の端で感じていた独特の何かは想像を絶するほど強くなっていた。足を竦ませる恐怖を掻き立て、逃げ出したくなるほどのプレッシャーを放つドア。
ドアの間にいるだけでじわりと手が汗ばむ。さらに手が震えて止まらない。
早苗は手の震えを抑え、恐る恐るドアノブを握る。そしてゆっくりとドアを開いた。
木が擦れる音とともにドアは開いていく。部屋の中は真っ暗。優雨がいた部屋のように、一切の光が届かない深い闇が立ち込めている。
早苗は部屋に入り、ペンライトを取り出そうとした。その時だった。
激しい音とともにドアが閉まり、完全な闇に早苗は包まれた。
何も見えない状況に早苗は一瞬、冷静さを失いかけた。しかし、一呼吸置いて無理やり自分を落ち着かせる。そしてペンライトのボタンを押そうとした。
ぺたん……ぺたん……
それと同時に部屋の奥から濡れた何かが床に当たる音が聞こえ始めた。
早苗はその音に気を取られてペンライトのボタンから指を離した。そして耳の神経をその音に集中させる。
ぺたん……ぺたん……
その音は徐々に近づいてくる。
ぺたん……ぺたん……
早苗は危険だと感じ、ペンライトで明かりを灯そうとした。その時だった。
ぺたぺたぺたぺたぺた
突如その音は激しくなり、早苗の目の前に近づいた。そしてその音の主は早苗に襲いかかる。
早苗は小さい悲鳴をあげて何かに押し倒された。その何かは早苗の首を掴み、凄まじい力で床に押し付ける。
その何かからは鉄のような、生臭いような気持ちの悪い臭いが漂っていた。
首を掴んでいるのは人の手のようだ。子供のもののように小さな手だったが、振り解けないほどの力で早苗を押さえつける。
何かが早苗の顔に近寄った。目前まで来て、薄っすらとその何かの姿が見え始める。
その何か髪が乱れた人のようだった。
どんどん顔を寄せてきて、早苗の耳元でその何かは囁いた。
「見逃してあげるつもりだったのに」
その言葉とともに、早苗を押さえつける力が強くなった。




