Ⅰ:堕ちて闇と成り果てる
その世界の中心には、天を貫く巨大な塔が聳えていた。それは星が彩る漆黒のキャンパスへ、一途に手を伸ばしているように見える。
五人はそこに居た。老若男女、世代は違えど皆一様に金髪金眼であり、同じ目的を胸に苦楽を共にしてきた同志だ。一人の少女が、天を仰ぎ見る。年の頃は十代も半ばであり、黄金の短髪は穢れを知らない。トパーズのように燦然と煌く瞳には、力強い光が宿っていた。揺らぐことのない意志が窺える。
上空を見詰める少女の横顔を見たのだろう、傍らに居た最年長であろう壮年の男が厳めしい表情をほころばせた。
「土姫、長かった旅も終わりです。あとは貴女が天上世界へと向かい、神へと転生するだけ。これで母国グランディアに、永久の繁栄がもたらされるのです」
「分かってるよ。ぱっぱと済ませて神様に成ってくるから、あぐら掻いて待ってな」
少女は男の方を振り返ると破顔した。その人懐こい笑顔には年相応の元気さがあり、太陽のように皆の心を明るく照らす。男も、他の同志も、安心したように笑みをこぼした。
少女は気を引き締めて、雲一つ無い夜空を見上げる。天を満たす星々は輝きを絶やすことなく、地上を照らす。
少女がこの光を拝むのも、今日で最後。悲しくないはずがない。だが、たった一人の少女が悲しみを捧げることで一つの国が救われる。それだけを信じて、少女たちはここまで来たのだ。
未練は国に置いてきた。少女に必要なものは、心と身体の二つのみ。
少女は胸に手を当てて、深呼吸を繰り返す。早鐘を打つ心臓を無理矢理落ち着かせて、まぶたを閉じた。
少女は歌った。その声は高らかに、清澄に、地上世界の全てを愛おしむ。長き地上の歴史の中で幾度となく繰り返された歌は、天上世界への扉を開くとされている。同志も黙って聴き入り、その歌声に酔いしれた。
そうして、歌が終わりを迎える。旋律が止み、静寂が戻ってくる。直後、少女の足元を中心に方陣が展開した。陣はまばゆい光を放ち、塔の頂を包み込む。少女もその光に目を覆った。目を瞬かせて、視力を回復するように努める。
「うわっ……」
少女の眼前にそびえるのは、純白の城だった。一切の混じり気が無い、文字通り純粋な白。地上世界では見たこともない清らかさだ。庭園には色鮮やかな花が咲き誇り、中央の噴水が撒く水飛沫が幻想的な空間を演出している。上を見上げれば、空は青い。天の上に空があるのかという疑問が浮かんだが、十余年も地上で過ごしていれば空という表現が一番楽だ。
いつまでもこの景色に見惚れているわけにはいかないと我に返った少女は、城内に足を踏み入れる。侵入者などという不届きな存在とは無縁なためか、扉は既に開け放たれていた。
豪奢な装飾と、くらむような照明。真っ赤な絨毯が敷かれた廊下を、ひたすらに進んでいく。城内は恐ろしく静かで、ブーツが絨毯越しに床を叩く音のみが鼓膜を揺らす。
玉座の間へと通じるであろう扉が見えた。そこで少女は、足を止める。あとほんの十数歩も進めば、神に謁見するというのに、まるで躊躇するかのように立ち止ってしまう。
「あたしが神になれたら、あいつら、喜んでくれんのかなぁ」
グランディアに残してきた、二人の幼馴染みに思いを馳せる。少女は彼らと日々を共に過ごしていた。ここまでそばに居てくれた同志たちよりも、ずっと長くて濃い時間を。しかし少女は彼らを置いて行った。別れを惜しむ二人に「さっさと追いついてきな」と笑って。
「ああっ! あたしらしくないっての!」
金色の髪の毛を掻き乱して、深く吐息する。
「勇気出せ、怯えるな。無神経で、無鉄砲な、あの頃のあたしで居ろ」
左胸を力一杯押さえつけて、顔を上げる。あとはもう、この扉を開くだけなのだ。取っ手に手を掛けて、勢いよく開け放つ。
光が溢れた。ここに来たとき以上に強烈な輝き。瞬きの後、少女は見知らぬ世界に飛ばされていた。先程とは打って変わって、ただの暗闇。上も下も、右も左も、前も後ろも。風景と呼べるものは何も見えず、ただ少女自身の姿だけが鮮明に見える。
「なんだよ、これ……」
うろたえる少女の周囲にゆらゆらと光球が漂う。それは少女の眼前で停止すると、明滅を繰り返す。
『いつ以来だろうな、人間がここまで登り詰めたのは』
光球の明滅に呼応して、どこからともなく声が響く。そして少女は気づいた。この声こそが神なのだと。そう理解した途端に湧き出す畏敬の念。呼吸も忘れ、ただ汗を流す。
すると光球は、まるで含み笑いでも浮かべるようにぼんやりと光る。
『どうした――怖いのか?』
「だっ、誰が!」
と言って、少女は口を覆った。神に対して何て無礼な言葉使いをしてしまったのかと気づいてしまい、全身から血の気が引く。
一方の光球は愉快そうに明滅した。直後、聞こえてくる笑い声。
『なに、私を神と仰いで媚びる者なら過去にいくらでも見てきた。ゆえに、貴様は少し変わっている。ありのままで話すがよい。咎めはせん』
怪しむ少女だが、やがて肩を落としてため息を吐く。
「……ま、自分が一番だっつって変に偉ぶる神様より遥かにマシか。そんじゃ、あたしの話し方で話させてもらうぞ」
光球は尚も明滅を繰り返す。それは少女とのやり取りを楽しんでいるようにも見える。そこまでの観察を可能にする余裕を取り戻していた。
『さて……その容貌から察するに、貴様は土の民だな』
少女は力強く頷いた。光球は興味深そうにゆっくりと輝きを強める。
『のろまなグランドもここまで来れるものなのだな』
「意志の問題だろ。今回は他の三組よりも、あたしの意志が強かっただけの話だ」
少女はどれだけ傷つけられても立ち上がり、這いずり、泥に塗れて戦ってきた。
全てはグランディアのため。その愛国心で、他国の姫を打ち負かしてきた。
『――神となり、母国に繁栄をもたらす。それが貴様の意志なのか?』
声が微かに鋭さを増す。その変化を感じ取れる程度には落ち着いていただけに、言いようのない危機感を覚えた。
少女は押し黙る。この答え一つで、これまでの旅を台無しにしてしまう。皆の期待を裏切ってしまう。そんな予感が胸を締め付けていた。
『答えろ、グランディア繁栄のためにその身を捧げ神となる。それが貴様の意志なのか?』
催促を始める声。光球の輝きは今にも消え去ってしまいそうなほど淡く、少女が心に抱いていた微かな希望さえ奪っていく。
少女は閉ざしていた口を、重々しく開く。光球をしっかりと見つめて、告げた。
「それがあたしの意志で、誇りだ」
返事は無い。それどころか眼前の光球も徐々に輝きを失い、弾けて消えてしまった。残滓に手を伸ばす少女。途端、暗闇が騒ぎ始めた。少女はとっさに耳を塞ぐが、脳に直接語られているかのように鮮明に響く。
『驕るな人間! 貴様らごとき穢れた生命が神に成り代わろうなど……身の程を知れ!』
声は猛り、暗闇が一層騒ぎ立てる。それはどんな感情かも説明がつかない叫び声のようなもの。少女はその場にうずくまり、泣いた。グランディアに居た頃も、旅をしている間も、一度たりとも涙を流したことが無かったと、少女自身は記憶していた。それが今、まるで幼子のようにぼろぼろと涙をこぼしている。
見るに堪えない状態の少女に、声は追い打ちを掛けるように言い放つ。
『自身を捨てた貴様は、人間ではない! 貴様を人間たらしめていた全てを剥奪する!』
声がそう言ったのと同時、少女は自身の変化に気づいた。身体がざわめく。細胞一つ一つが暴れ回っていると錯覚してしまうほど、激痛を伴う変化だ。
絶叫する少女。その瞳と頭髪は闇のように黒く、かつて見た黄金の煌めきはどこにも在りはしない。
糸が切れたように、ぷつりと声が止む。少女はそのまま倒れてしまう。
少女が「落下している」と認識出来たのは、それから間も無くのことだった。周囲は雲海。眼下には塔が見える。
「やっば、あいつらに面目立たねぇじゃん……」
あんな偉そうなことを言っておいて、転生は失敗した。どうしようもない後悔と自責の念が少女を苦しめる。
塔に近づくと、まるで何かの加護であるかのように速度が緩む。ゆっくりと降り立つ少女に同志たちは何も言わず、奇怪な視線を向けている。少女は居た堪れなくなって、頭を掻いた。
「ああ……悪い、失敗しちゃったよ」
「誰だ、貴様」
天上世界に向かう前、最後に声を掛けた壮年の男が冷たく言い放った。手で合図すると、残りの三人が武器を取る。動揺する少女は、苦笑を浮かべる。
「おいおい、やめてくれよ」
「その眼と髪は……何の冗談だ」
壮年の男は腰から剣を引き抜き、突きつける。
なぜ敵意を向けられているのか、眼と髪が何だと言うのか。少女は未だに理解出来ていない。
「あたしが分からねぇのか? 土姫の……」
言い切る前に、眼前で剣が閃いた。反射で身を引く少女の視界で、何かがはらはらと舞う。それは漆黒の糸――いや、毛髪だった。
「えっ」
そこで少女が気づく。澄み切った黄金の髪が、闇を髣髴とさせる黒になっていることに。瞳も同様であるのだが、今は気づけない。
「なっ……なんだ、これ」
「掛かれ! 殺して構わん!」
うろたえる少女のことなどお構いなく、壮年の男が鼓舞し、元同志が殺到した。
凄惨だった。現代最強と言うべき四戦士が、力無き少女に殺意をぶつける。斬りつけられて血が流れる、殴られて骨が砕ける。抵抗する力を失っていた少女は、夜空を仰いで涙を流した。逃げることすら叶わない、ただ死を待つのみといった様子だ。
壮年の男が剣を逆手に持ち、掲げる。切っ先は、少女の額。その瞳には冷徹さのみが宿り、およそ人に向けるものではなかった。
覚悟を決めた少女は、ゆっくりとまぶたを閉じる。
――黒い風が吹き抜けた。直後響く男の悲鳴。続いて、何かが堕ちる音がした。空気がどよめく。それは少女も感じたようで、閉ざしたまぶたをうっすらと開く。
黒が在った。腰まで届く黒髪は艶やかで、身を包むコートも闇のように深い。
「あんたは……」
少女は震える声で訊ねる。それは何も答えず、再び姿を掻き消した。吹き荒ぶ突風。元同志の悲鳴が静寂を引き裂く。涙に濡れた瞳ではおぼろげにしか見えないが、黒が何かをしているようだった。
断末魔の狂想曲が終わりを迎えたとき、そこに在ったのは二つの黒。
「やはり、神には成り得ませんでしたか」
声は女性のものだった。落ち着いていて、絶望の中に優美ささえ窺わせる声。しかし、言葉に込められていたのはありったけの憎悪。その差は少女に恐怖にも似た感情を抱かせた。
女性は少女に歩み寄ると、憐憫の眼差しを向けた。
「人は間違いから何一つ学ぼうとしない。ただ失敗に目を瞑り、都合の良い虚像を描き続ける。そうして生まれた仮初めの存在に救いを請い、自らを騙すのです。これがいかに愚かだと、どうして気づかないのでしょう」
人は何を間違えたのか。人が描く虚像が何なのか。仮初めの存在が何なのか。いったい何が愚かなのか。
少女は理解に苦しんでいた。涙に濡れ、恐怖に震えるその顔はむしろ、理解することを拒んでいるようにも見える。
女性は微笑む。その表情はひどく妖しげで、少女の心を惹きつけてやまない。女性は屈んで、血塗れの手を優しく包む。
「あなたも憎いでしょう? あなたから力を奪った者が。あなたから証を奪った者が。あなたから同志を奪った者が――あなたの存在を奪った者が」
女性の声音は優しく、甘美だった。その囁きは少女の心を大きく揺らがせて、一つの感情を増幅させる。涙に濡れていた黒い瞳に光が戻る。
女性は慈しむように少女を抱いた。
「それでいいのです。今日から私とあなたは同志、虚構の存在に踊らされた哀れな姫君。憎悪に塗れて、世界を裏切り、正しましょう。この世界を真に導くことが出来るのは、私たちだけなのですから――」
闇は光が強いほど濃くなる。世界にそれを知らしめるため、小さな闇は静かに蠢いた。