第三十六話 本当に望んでいたものは
世の中は皮肉なものだ。
嫌いな場所で私は夕方まで過ごしていた。
そして、その皮肉な現実はわたしを嘲笑する。
現実は小説より奇なり。
いい加減使い古され始めた言葉。
そして、それは今の私の状況も指す。
いや、もしかすると、これは小説通りの展開なのかもしれない。
そんなことはどうでもいいとして、今の私は自分の予想の範疇を超えた事態になっている。
私は、街で暇つぶしをした後、一旦家に帰ろうとしたのだけれども、途中で思いとどまり、公園による事にした。
彼女とはここへよく来た。
私が街に行く事を嫌がったからだ。
だから、ここにはいろいろな思い出がある。
たぶんきっと楽しい思い出だけが。
だけど、その場所につくと同時に声を掛けられた。
相手は、彼女の母親だった。
わけも分からず呆然としていると、ベンチを指された。
どうやら座れと言うことらしい。
わたしは素直に座る。
そう言えば、このベンチはここに来るときは必ず彼女と座った席だった。
見晴らしが良くて彼女はお気に入りだった。
「今日、君の母親に会った」
ぼんやりとそんな事を考えていると唐突に彼女の母親が口を開いた。
けれど、何が言いたいのか、私には分からない。
「君に初めて会った時私は思った。どうしてそこまで臆病なのか。けれど、それも今日分かった。君の母親が原因だね」
私は何も答えない。
いまだに彼女の母親が何を言いたいのかが理解できていないから。
「今日、君と話がしたくて、君の家に行ったんだ。だけど、どうやら君はどこかに出かけていたらしく、家には君の母親しかいなかった。仕方なく、君がどこにいるのか聞いてみた。答えは分からないだった。それは別にかまわない。親が子供のこと全部を知りようがないことぐらい同じ親である私が良く分かっていたから。けれど、君の母親は申し訳なさそうな顔をしていた。一体、どうしてなのだろうか。そう思っていたら、こういっていたよ」
うちの息子がなにかしましたか?
「私はびっくりしたよ。そして、それと同時に君の態度のわけも理解できた。君の母親は自己保身の強い方だ。自分の評価が下げられる事を嫌っている。そして、それと同時に君に悪評価がつくことを恐れている。君の評価が落ちるということは、自分の評価も落ちる事になるからだ。君の母親はたぶん長子である君に、ひとかどの人物になって欲しかったんだろう。だからこそ、君を今のような性格に育てた。大人に決して逆らわない子供。大人の都合だけで考えられた子供に。」
それは正しいと思う。
私の母親は小さいころから私を管理していた。
小学校に入るころには、もう友達が選べなかった。
まず、自分より年下の人と付き合うことなんて許してくれなかった。
最低でも自分と同い年、そしてできる事なら、自分より頭のいい子。
そんな事まで事細かに決められていた。
もちろん、私はそんな馬鹿みたいなものを護りはしなかった。
そのためいつもいつも怒られていたが、そんなことはどうでも良かった。
泣いて怒って、こっちも言い返していた。
そして、それでもどうにもならず結局私はそれを受け入れた。
いや、違うか、母親の前でだけ、それを演じて見せた。
友達の前でだけ私は自分の姿を見せていた。
その友達も、今はいないけれども。
「そして、それが体の中に染み付いたんだと思う。そのせいで、君は苦しみ、そして娘を泣かせた」
彼女の母親の目が変わった。
獰猛な猛禽類のような目だ。
「私は君のことを少しぐらいなら分かる。君はまず臆病で、自分に自信がない。そして、人の顔色を気にしないと生きていけない。そんな君だからこそ、自分より周りを立てる。傷つきたくないから」
彼女の母親は私の母親より大人だ。
きっと私の母親じゃこんな考えていたらないと思う。
たぶんきっと自分の間違いにすら気付かず、私のことを責めるだけだと思う。
「そうですね、確かにそうなのかもしれません。けれど、それでどうしろというのですか?」
申し訳程度の敬語。
だが、その言葉には何の敬意も含まれていない。
ただ、形式的につけているだけで、単なる疑問でしかない。
「何も言わない。私はただ、それが分かったから言いたかっただけ。君が好きなようにすればいい。君が傷つこうがどうなろうが私には関係ない。ただ、娘を傷つけなければね。いまだに、うちの娘は君を思っている。あの子は弱いからね。ものすごく弱いから、今までのようにはやっていけない。もう、肩肘張って生きていくだけ精神力もない。だからなのかもしれないし、そうでもないかもしれないけど、まだ君のことを思っている。心の奥底でもしかすると、て言う可能性に必死にしがみついている。だから、うちの娘を傷つけるようなことをしたら、私は許さない。大切な一人娘だからね」
彼女の母親はそう言うと、立ち上がる。
もうこれ以上話す事はないのだろう。
私はその後姿を見ながら、彼女のことをうらやましく思った。
彼女のような母親を持った彼女のことを。
けれど、そんな事を言ったところで、きっとどうにもならない。
今の家にうまれてきた時点でもうどうにもならないことなのだ。
私は家に向かって歩き出した。
もうそろそろ、妹たちが帰ってきたころだと思う。
さすがに母親も妹たちがいるまで、堂々と言うことはしないだろう。
だから、ちょうど良い。
夕闇に街が飲み込まれ、足音が響き始める。
その音はどこか淋しげだった。
いや、きっと淋しいんだろう。
私自身が淋しいのだ、足音もそんなふうに聞えてもおかしくはない。
今の私の心には寂しさだけが募っている。
今の私の心には悲しみだけが募っている。
それはきっと、彼女の母親とあったせい。
私は今でも彼女のことを愛している。
あそこまで高ぶった感情をそう簡単に沈める事などできるわけがない。
けれど、それでも彼女を受け容れられない。
怖い。
やはり、彼女のことを傷つけることが怖い。
彼女を傷つけること、それはすなわち自分を傷つけることにつながる。
私は弱い。
彼女や妹たちには堂々と言っていたけれど、私は弱く脆い人間。
傷つく事を恐れ、動けないでいる。
私は誰かに守ってもらわなくては生きてはいけないほど、力のない生き物なのだ。
だから、彼女とはいられない。
嬉しかった。
彼女が私のことを好きだと、必要だといってくれた事が。
けれど、嬉しかった反面、どうしようもなかった。
私は彼女のことを護れるほど、彼女のことを包み込んでいられるほどの強さなんてない。
いつも自分のことで精一杯なのだ。
だから、結局私はあの時彼女の願いを拒絶すること以外できなかった。
私は愛して欲しかったけれど、それ以上に護って欲しかった。