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第二十五話 夏の思い出

彼が私をデートに誘う場所は大体散歩に近いものばかりだった。


人が大勢いるところへ誘った事なんて、夏に海に誘ったときと誕生日、クリスマスのときぐらいだった。


たぶん、そのときだって義務感みたいなものがあったんじゃないかと思う。


夏なんだから、海に連れて行ってやらなくちゃいけない、とか。


せっかくの誕生日とかクリスマスなんだから、街へと出ていろいろとエスコートしなくてはいけない、と。


だから、その日は普段以上に優しかった。


いつも以上にふんわりとした笑みを浮かべ、ふんわりとした口調だった。


だけど、その時の私はそれに気がつかなかった。


海に連れて行ってくれたこと、クリスマスを一日中一緒に過ごせる事に有頂天で、自分のことで一杯一杯だったし、それから後も別段気にしなかった。


たぶん、こうやって離れているからこそ、気付けたんだと思う。


海に行った夏。


彼自身もいろいろ選んだんだと思う、あまり人が来ないような場所をしていた。


長い間いるんだから、あまり自分に負担が掛からないような場所を選んだんだと思う。


私が思う中で、彼が自分に自分を妥協した日だと思う。


だけど、そんな事を知らない私は、彼と一緒に遊びまわった。


遠くまで泳ぎに言ったり、砂浜で遊んでみたりととても楽しかった。


まあ、残念な事もあったのはあったんだけど。


その日、私はほんの少しだけ勝負した。


ビキニを着てみたのだ。


今まで、私は友達と海に行くときはワンピだった。


自分でも、男の人の視線が自分に集まってきていることぐらい自覚があったから、ビキニなんてものをきる気なんて全く起きなかった。


だけど、そのときはそんな悠長な事を言っている暇なんてなかった。


そのときはもう既に付き合い始めてから半年がたっていたんだけど、彼は全く私に手を出そうと言うそぶりすら見せない。


それこそ、まだキスすらされた事もない。


彼のことだから、たぶん私のことを大切にしてくれているんだと思う。


だけど、友達にまだなのか、て聞かれる度に恥ずかしくて仕方ないし、女としての自信もどんどんなくなっていく。


だから、この夏は勝負しようと思った。


さすがに一線を越えようとまでは思わないけど――さすがにいきなりそれは恥ずかしくて無理――せめてキスぐらいは、と思ってだ。


だけど、彼はショックを受けるほどいつもどおりの彼。


今日きている水着は友達と相談して選んだもの。


友達もこれならといっていた。


実際に、周りから男の人の視線を受けている事も分かる。


分かるんだけど、彼は全く気にしてくれてなんかなかった。


全然ぐらついている様子も見受けられない。


それほど自分の体に魅力はないのだろうかと、思わず思ってしまう。


確かに、胸はそんなに大きくない。


だけど、それでも平均並ぐらいはあると思うし、腰だって綺麗にくびれて、足だってすらりと伸びている。


肌だって、白くてすべすべで綺麗だという自信だってある。


友達だって、あんたの体ならいちころよ、と言う太鼓判を押してくれた。


だと言うのに、彼は全く気にしてくれない。


それがすごく傷ついた。


だからだと思う。


帰りのとき少し機嫌が悪かったのは。


そういうのに敏感な彼は、すぐに気がついたんだけど、理由のほうは分からないみたいだった。


当然だと思う。


だって、キスしてくれないから、拗ねているんだ。


そんな事をしようと考えていない彼が判るはずがない。


だけど、それが逆に本当に寂しかった。


なんだか、一人で恋愛しているみたいで、悲しかった。


それこそ、恥ずかしい話、涙がこぼれだしそうだった。


だけど、実際にそうならなかったのは、彼がそっと抱きしめてくれたから。


たぶん、私がそんな顔をしていたからだと思う。


だから、寂しさとか悲しみとかを拭いたくて、抱きしめてくれたんだと思う。


だけど、それでもそれが嬉しくて、私もぎゅっと抱きしめ返していた。


運がいいことに、周りには誰もいない。


私と彼の二人きり。


ここしかないと思った。


今この甘い雰囲気はたぶん初めてだと思う。


それまで全く感じさせなかった彼が、今日初めてそれを出してくれた。


女は度胸。


彼がそんな事を考える事ができないなら、私から行くしかない。


少しはずかしいけど、そんな事を言っていたら、全く進まない。


思い切って、


「ねえ、キスして」


彼の胸に頭をこすり付けるようにしてそういった。


あまりのはずかしさに声がかすれてしまったけど、たぶん聞えていると思う。


彼の心臓の鼓動がほんの少し早くなったように感じられた。


だから、聞えたんだと思う。


だけど、彼はなかなか動こうとはしなかった。


もしかしていやなんじゃないだろうかと思って、不安になってしまう。


けど、私はしたいし、普通誰でも本当に好きな人とならそうしたいと思うはず。


だけど、彼は全く動かない。


どうしてなのかは分からない。


私は勇気を出して恐る恐る彼の顔を下から見上げてみた。


そしてすぐに見えた。


始めてみるぐらい耳まで真っ赤にしている彼の顔を。


びっくりした。


彼はどんなときでも表情を崩さない。


そうだとばかり思っていた。


だけど、今目の前にいる彼の顔は私も驚くくらい真っ赤だ。


彼もすぐに私が彼の顔を覗き込んでいる事が分かったんだと思う。


ぱっと向こうを見る。


けれど、もう遅い。


彼の恥ずかしげな顔をしっかりと見てしまった。


もう、脳内にしっかりとインプットされている。


「ねえ、キスして」


相手が動揺している事が分かれば、逆に私のほうは余裕が出てくる。


もう一度、彼の耳元でそう言う。


その際、彼の体を抱きしめる力を強くする。


友達が教えてくれたテクニックだ。


こういうことをすれば、その気になる、とか何とか言っていた。


案の定、彼にもそれが聞いたらしく、赤かった顔がさらに赤くなる。


嬉しかった。


別に彼は私の体に興味がないとか、魅力がないとかそう思ってない。


しっかりと意識してくれていた。


それがすぐに分かった。


今までならたぶん、これで満足したと思う。


でも今日は違う。


もう一歩先へと進みたい。


もっともっと、彼を近くに感じていたい。


「だめ、かな」


最後の殺し文句だったと思う。


すぐに彼が落ち着きを取り戻そうとして、深呼吸をしているのが分かった。


今まで、真っ赤だった顔が今までどおりの柔らかい表情に戻る。


そして、逆に私の顔はたぶん真っ赤になっていると思う。


せっかく初めて私が優位な立場にいれたのに、あっという間に形勢逆転。


やはり、私では彼には勝てないみたい。


「えっと、じゃあ、目をつぶって」


そんな事を内心で考えていると、優しくそう呟く。


もう完全に普段の彼である。


それがたまらなく悔しかったけど、ゆっくりと目を瞑る。


途端に、心臓の鼓動が早くなっている事が自分でも分かった。


どきどきする。


けど、このどきどきはどこか心地よかった。


なんとなく、彼が動いているのが分かった。


たぶん、もう少し。


そう思った次のタイミングで私の唇に柔らかくて暖かい何かが当たった。


たぶん、彼の唇だと思う。


そう思うと嬉しくて、なぜか目を開けた。


理由は分からない。


分からないけど、どうしてか開けていた。


その瞬間彼と目があう。


けれど、そんな事よりもっと驚く事があった。


私が目をあけている時は、普段の柔らかい顔だったのに、今の彼の顔はその前と同じ真っ赤だった。


彼が慌てだした。


たぶん、間近でそんな顔を見られたのがはずかしいんだと思う。


ぱっと、体を離すと、両手で顔を覆って隠す。


それほどまではずかしかったのだろうか。


思わず、のんきにそんな事を考えてしまう。


けれど、そんな彼をたまらなくかわいく思えた。


なんとなく男の子である彼にそんな事を思うのは失礼なのかもしれないけど、そう思えた。


そんなかわいい彼を見ながら、さっきまで彼の唇が触れていた部分を指でなぞってみる。


触れた瞬間、何ともいえない充足感を感じた。


そして、離れた瞬間、なんとなく残念な気がした。


たぶんもっとそれを感じていたかったんだと思う。


これはいけないと思った。


彼は麻薬のような人とは思った。


彼なしじゃ生きていけそうにもないとも思えるときが多々あった。


けど、さっきキスしたとき、それはさらに強くなってしまった。


もっとしたい、もっとそれを感じていたい。


そう思えてたまらなかった。


改めて、恋の怖さを知った。


まさか、自分がここまで堕ちてしまうとは思わなかった。


たったキスだけで。


でも、それも彼となら悪くないと思った。


彼と一緒なら、それでもいいかと思った。


そのときは翌日、友達にどうなったのかと聞かれたけど、適当にはぐらかした。


誰にも言いたくなかった。


あの彼のかわいい姿を誰にも教えたくはなかった。


まあ、キスぐらいしたのかどうかぐらいは聞きだされたけど。



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