第十三話 彼女と私の初喧嘩
彼女とけんかしたのは、覚えている限り一度きりだったと思う。
理由の方は一応聞いたのだが、分からない。
うまく理解できなかったと言った方が正しいか。
それに喧嘩といっても、彼女がいきなり私に対して盛大に悪態をついた、その程度の物である。
最初のうちは、いつもどおりに彼女と帰っていた。
けれど、どんどん険しくなっていく彼女の顔を見ていられずに
「何かあったの?」
そう訊ねたのだが、どうやらそれがいけなかったらしく、彼女の顔はさらに険しくなり、私の顔を睨むと
「なんでもない」
そういって、そっぽを向く。
けれど、私が知っている限り、彼女のそんな顔を見たことは一度としてした事はなかった。
だから、彼女がそう言う事で余計に心配になる。
だからもう一度訊ねなおしたのだが、
「なんでもないって言ってるでしょう」
今度こそ、本当に本格的に怒らせてしまった。
けれど、私からしてみれば、何で言われもなく怒られなくてはいけないのか分からない。
思わずムカッと来たが、それでも私は必死になって心を落ち着ける。
なだめる方まで感情的になってしまっては意味がない。
彼女の怒りを静めるのが先である。
「まあ、いくらなんでも、怒鳴らなくても……」
「しつこいのがいけないのよ」
「な……」
私は、思わず言葉を失った。
彼女はと言えば、しっかりそういったあと私のことを睨み、またそっぽを向く。
そんな彼女の態度が一々私の怒りを刺激した。
けれど、必死になってその怒りを抑える。
彼女にだって何か理由があるのだ。
それを分かってあげなくてはいけない。
私は自分自身にそう言い聞かせる。
「でも、それは君が心配だから……」
「本当に?」
彼女の言葉、そして表情は、私の言った言葉に対して、何の信頼もないそぶりだった。
あなたは本当にそんな事を言っているの?
ふん、そんな言葉言われたところで、到底信じられない。
そういっているようにしか思えない。
私の中の怒りがさらに膨らむ。
それと同時に必死になって彼女に嘆願していた。
これ以上、私を怒らせないでくれ、と。
私は、彼女とはけんかしたくない。
いや、そもそも自分の感情と言うものを見せたくはない。
この純粋な怒りだけは。
けれど、彼女は私の思いをことごとく打ち落としていく。
私が折れるような言葉を言っても、彼女は逆に噛み付いてくるだけ。
まるで、私の言葉なんて聞きたくもないかのように。
結局、私は、途中で彼女と別れた。
自分の我慢の限界だったのもある。
けれど、それ以上に彼女には落ち着いてものを考える時間が必要だと思ったのだ。
いや、それはいいわけだったのだ。
ただ、彼女のご機嫌取りに疲れただけのことだったのだ。
そのときから既に、私は自分の事しか見えていなかったのだ。
家に帰ると、私は、服を着替え、そのままベッドの上に倒れこむ。
それ以外何もしない。
何もしたくない。
今の私の頭の中はどす黒い怒りだけで占めており、私はそれに振り回されかけている。
もし、こんな時に、何かをしたところで、まともな結果にならないことぐらいお見通しである。
私は、盛大にため息をつくと、天井を仰ぎ見る。
真っ白な、本当に真っ白な天井である。
母親がうるさいので、部屋の掃除に怠りなどもなく綺麗なのだが、それが逆に腹立たしい。
本当にこれが帰りでよかったと思う。
もし、行きのときにあのような局面に迎えていれば、私は校内でこのどす黒い感情と対面しなくてはならなくなっていたのだ。
そう思うと、何ともいえない。
きっと、あからさまな態度で人と接する事になっていただろうことぐらい簡単に予想ができる。
そんな状態の私など、到底私ではない。
学校にいる限り、私は私らしく振舞わなくてはならない。
既に、校内での私の役割がある。
いや、この場合はクラスでの、と言うほうが正しいか。
まあ、どちらにしろ、クラス内での私の位置どころでは、そんなことは許されないのである。
感情をもてあまし、他人に当たってしまうようなことは。
私はおもむろに立ち上がると、本棚から一冊の小説を取り出す。
心の中が荒れて、どうしようもない時にはいつもそうしていた。
この本にはそれだけの力があった。
初めて見た時以来、私はこの本の魅力の虜となってしまった。
いや、この本の作家にか。
そして、その作家の著作物の中でも、特にこれが私のお気に入りなのだ。
私の心を凪いでくれる唯一のものだから。