第十八怪 向日葵
意識が浮上したのを感じる。
貧血のように頭がくらくらして、頭の奥がすーっとする。
うっすら目を開くと、映ったのは薄緑のカーテンに白い無機質な天井。そして消毒液の独特な匂い。私はそれらを少しの間、呆然としながらただ感じるに任せていた。
「……はい。308号室です」
カーテンの向こう側から女性の声が聞こえる。細く開けていた目を全開にして頭を上げようとした。
「痛っ」
上げようとした頭に激痛が走る。息を吐いてまた枕に頭を埋めると、カーテンがさっと開き、白い服を着た女性が入ってきた。その人の動きが早く感じて私は一瞬頭が混乱する。脳が外界の動きについていけないみたいだ。
「谷樫さん、気がつきましたか?」
「は、い?」
「ここがどこか分かりますか?」
「いえ……」
「ここは病院です。いまご両親来てますから」
完全に面食らってしまった。
全然、この状況が理解できない。
安心させようとしてか、看護師と思われる先程の女の人は優しく微笑むと、無駄のない動きでカーテンの向こう側へと消えていった。
病院? なんで病院にいるの?
何気なく頭に手をやると、布の感触。そこをなぞってみて、ようやく自分の頭が包帯で巻かれているのに気が付く。
「紗枝っ!」
泣き出しそうな声にはっとする。カーテンが素早く動くと、そこにはやつれた懐かしい顔。
「お母さん……」
「もう、この子は! 心配したんだからっ」
苦しいぐらい強く抱きしめられる。
お母さん少し痩せた? 自分に抱きつく母に、自分もいまだにぎこちない動きをする腕で抱きしめた。
母の背中越しに、覗き込む姿。それは目頭を熱くしたお父さんの姿だった。私と目が合うと少し照れくさそうに鼻をすすり、何も言わずにただ優しく笑った。
「心配かけて、ごめんなさい」
自然と謝罪の言葉が出てきた。こんなにやつれた両親を私は初めて見る。いつも口うるさいけど明るいお母さん。あんまり喋ったりしないけれど、頼りになるお父さん。二人とも心配してくれたんだ。私はそこでやっと元の世界に帰ってきたんだと実感した。もう戻ってくることが無いと思っていた世界に、戻ってこれたんだ。
母は私から離れると、涙ぐむ私の髪をゆっくり優しく撫でた。
「本当によかった。ずっと目を覚まさないから」
「どういうこと? 私、どうしたの?」
なにもかも分からないことだらけ。
鬼に河に落とされて、溺れそうになって。それからは、なんにも覚えていない。気が付いたら病院だった。
「覚えて、ないの?」
「うん」
お母さんの探るような目に、不安げに頷く。
まさか鬼に連れて行かれて今まで妖怪の世界にいました、なんて言えるはずもなく。そんなこと話したら間違いなく精神科に連行されそうな気がしたのだ。
お母さんは頭の中で少し整理をつけているみたいで、少し思案した後、話し始めた。
「紗枝たち五人がずっと学校に帰ってこないから、先生とお母さん達で最初探したのよ。それでも見つからないから警察に電話して、ずっと探していたの。そしたら山のほうで集中豪雨が発生したなんていうから、もしかしてそっちに行ったんじゃないかと思って。消防の人たちにも協力して探しに行ったのよ」
えっと……。
なんだかすごいことになってる。
警察に消防? 思わず顔が引きつってしまう。
「そしたら最初、女の子と男の子二人が土砂で潰されたお社で見つかってね。もう泥まみれで凄かったんだから! それでもまだ紗枝と光子ちゃんが見つからないって、それから一週間近く探し続けて。もう捜索も打ち切りになりそうになった時、近くの小川で、紗枝を消防の人が見つけてくれたのよ!」
興奮のせいで母の目が熱を出した時みたいに、爛々と輝いている。早口に話している間も、両手の拳をぶんぶんとさせていた。
「それで、私病院で寝ていたの?」
「三日もよ!」
信じられないと言わんばかりに、首を振る母。
あぁいつものお母さんだ。
私はのんきにそんなことを思ったが、次の瞬間はっとして口を開いた。
「ねぇ、お母さん。みっちゃんはどうしたの?見つかったの?」
母の顔が凍りつく。うつむいて何も言わない。
そっか……。
私はそんな反応を見ても、別に驚いたりしなかった。
見つかっていないんだ。当然だよね。だってみっちゃんは、あっちに、鬼のところに残ったんだから。
今までお母さんの後ろで黙っていたお父さんが咳払いをする。気まずそうに、目を泳がせながら私に言った。
「見つかったよ」
「え……?」
見つかった?
みっちゃんが? 見つかったって?
目を見開いて父の顔を凝視する。信じられない。だってみっちゃんは……。そこまで思って、私は青ざめた。あの時、河に落とされた人影。もしかして……。
私の視線から逃げるように、お父さんは俯くとため息混じりに声を出した。
「見つかったんだ。見つかったんだけど……」
みっちゃんの……彼女の遺体は無残な姿で発見された。
流れが緩やかになった山の中にある川に、泥まみれで浮かんでいて、見つけた警察の人も目を背けるくらい酷い状態で死んでいたらしい。
葬儀は家族だけで細々と行なわれたそうだ。
母が私にもお別れを、とみっちゃんのお母さんにお願いしたそうだが断られたという。葬儀が終わった後、みっちゃんのお母さんと弟さんは、まるで逃げるように、数日後引っ越したそうだ。その理由は後になっても分からなかった。
学校は、私達の行方不明騒動で持ちきりになった。
一緒に連れ去られたはずの同級生達は、鬼については一切話さず、クラスメイト達が聞いても覚えていないと話している。
しかし皆なぜか英雄扱いを受けて、戸惑いつつもまんざらでもないみたいで、得意げに助けられた時のことを話していた。
やがて時間の経過と共にその話題を出す人もいなくなり、ついには亡くなったみっちゃんの事を話す人は誰も居なくなった。数ヵ月後には、まるでそんなことなど無かったかのように、みんな日常生活に戻っていった。
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春、先輩達の卒業式。
暖かい日差しに、優しい春風が花びらを運ぶ。
「紗枝ぇ! 早く早く!」
「今行く!」
友達の声に靴紐を結びなおすと、彼女達の元へ駆け寄っていく。校門には花束を持った先輩達。
「私絶対に第二ボタン貰う! 紗枝も早く好きな先輩から貰わないと!」
駆け出す友達の背中を見送って私は苦笑いした。別に特別好きな先輩はいないんだけどな。
後輩達に囲まれる先輩達。みんな笑ったり、照れてたり、嬉泣きしている人も居た。そのなかで見覚えのある先輩をみつける。
夕暮れの、薄暗いコンビニの光景。笑う声。
みっちゃんが鬼の世界に行くきっかけとなった先輩。
先輩は他のクラスメイトとじゃれ合って、笑っていた。友達に、もみくしゃにされている制服の第二ボタンはすでに無い。 もう誰かにあげたのかな。
私は漠然としながら、皮肉に映る、その微笑ましい光景を見つめた。
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学校の帰り道。あの神社へと続いていた山道に寄る。
山道は土砂でさえぎられた所までなら、今も上ることができた。フェンスより向こうは土砂で区切られていて、これ以上崩れないようにブルーシートで覆われている。
フェンスの手前には新しく建てられた小さな社。そこには枯れた花。私は手に持っていた花をそっと、その花と取り替える。両手を合わせる気にもなれず、呆然とその社を眺めた。
さわさわと花をつけた木々が揺れる。静かな悲しい場に木漏れ日が踊る。何をするわけでもなく、私はそのまま突っ立ていた。
するとそこへ、誰かが山道を上ってくる音が聞こえてきた。
え、どうしよう!
なぜか反射的に私は社の裏へと身体を隠した。どうしてそんなことをしたのか、私も分からなかったんだけど。なんとなくここに居るところを、誰かに知られたくなかったのだ。
それにしても誰だろう? あんなことがあってから、ただでさえ誰もこないこの場所は、さらに人が訪れることは無くなったのだ。
こっそりお社の後ろから覗いてみる。
え!? っと、思わず声が漏れそうになり、慌てて口を閉じた。
よれよれになった制服姿。あれはみっちゃんと仲のよかった先輩。なんでこんなところに来たんだろう。
気づかれないように身体を小さくさせて黙っていた。
何かを置いたような音と、乾いた音が聞こえる。それから少しの間、なんの音も聞こえなかったが、先輩の足音が聞こえ次第に遠ざかっていった。
ゆっくり様子を窺いながら社の裏から出てみる。先輩の姿はもう無い。
先輩、何しに来たんだろう。
社のほうへ視線を向けると、私が来たときには無かった小箱と花束が置かれていた。
先輩が置いて行ってくれたのかな。
社に近づいて屈む。私が置いたピンク色の花束と、先輩が置いたと思われるオレンジ色の花束。そして四角い箱。
これってなんだろう。それを拾い、よくよく見てみる。
「あ、手作りのオルゴール」
粗い作りのオルゴール。おそらく学校の課題で作ったオルゴールだろう。蓋には太陽のような向日葵が彫られている。
でも、先輩は失くしたって言っていたのに。
蓋を開け中をのぞくと制服のボタンが入っていた。
これは……第二ボタン……?
そして蓋の裏を見て息を呑んだ。
『光子へ お誕生日おめでとう』
不器用に彫られた文字。
その途端、弾けた様に先輩が言っていた言葉が蘇る。
『文化祭に出展するなんて聞いてなくて』
『自分流にアレンジしたくて』
先輩、あれはこういう意味だったんだ。
先生への提出が終わってすぐに持って帰ったのも、失くしたと言って文化祭に出展しなかったのも。
制服のボタンの下には、二つに折りたたまれたバースデーカード。カードの間に挿んであった向日葵の髪留め。
向日葵はみっちゃんの大好きな花。
そして文化祭の二日後は
彼女の誕生日……
先輩……本当は……
私は溢れる涙をぬぐいながらオルゴールのねじを回した。
優しく流れるメロディー。頬を撫でる暖かい風。
木漏れ日が彼女の大好きな向日葵に降り注ぐ。
「みっちゃん……」
私は一言彼女の名前を呼んだ。