第十一怪 紅い檻
「お、怒っているんですか?」
恐る恐る、目の前の紅い鬼を下から見上げるようにみつめる。鬼は盃を左右に傾けさせながら、中の透明の液体をゆらゆらと踊らせているだけで何も話さない。
私はぐっと口をつぐんで俯いた。狭い籠の中では鬼と距離をとりたくても取れない。気まずい沈黙に押しつぶされそうだった。
しかし意外にも心臓は落ち着いて、なんだか開き直ったようにいつも通りの鼓動を規則正しくさせていた。
神経が図太くなったのかな、私。
「鈴音」
「は、はい!」
突然呼ばれて、文字通り弾けたように顔を上げる。紅い指がひらりひらりと私を呼ぶ。正座していたせいで堅くなった足を気遣いつつ鬼の前まで足を進め、そこでまた正座した。本当に目と鼻の先に鬼が居る。
さすがに私の心臓も先程とは態度を変えて焦り始めた。お腹にドクドクと振動が響いて気持ち悪い。
「回れ」
「え?」
良く聞こえず聞き返す。
「ま・わ・れ」
細長い、しかし鋼のように丈夫な指が一本くるりと回される。何がしたいんだろう。そう思いながらも大人しく従い、言われた通り腰を浮かせてくるりと体をよじる。
「ひゃぁっ」
いきなり鬼に背中を向けたところで、後ろからからガチリと腰に腕が巻き付き、引き寄せられる。どんと勢い良く厚い胸板に背中を強く打つけられ、その衝撃に眉をしかめた。
何が起きたのか一瞬分からなかったけど、自分の下で鬼が足を組み直したのを感じ、膝の上に乗せられたことに気が付いた。
「なにするんですかっ」
後ろを振り返りながら抗議の声を上げる。少し強く抱きかかえられているせいでちょっと息苦しい。
「お前さん、あの魚とずっと一緒だったそうだナ」
息を押し殺した声が耳のすぐ後ろから聞こえ、ぞわっと背筋に言いようのないものが走った。それと同時に全身に鳥肌が立つ。
「えぇ、まぁ」
言いながら自分の身体を締め上げている紅い腕に視線を落とす。責められている気がして緊張してしまい、知らす知らず深く息を吐いてしまう。
「宿にも泊まったみたいだが?」
「そう、ですけど、それがどうかしましたか?」
応える代わりにまた腕の締め付けがきつくなる。しかも背中から舐めるような視線を感じ、感電したみたいに身体が震えた。私は霊感とかないハズなのに嫌というほど背中から不吉な気配を感じている。
怖い……泣きそう……。
目頭が熱くなるが、必死になって堪えた。
泣いたらダメ。しっかりしないと!
「今着ている茜の浴衣はどうした? 俺がやった物じゃないな?」
わき腹にある紅い拳がグッと帯のあたりを周りの布と一緒に掴む。
く、苦しい。
「魚さんが用意してくれたんです。私のはボロボロになってしまったので」
魚さんの話だと着ていた着物は濡れるわ引きちぎれるわで、もう衣類としての機能は果たしていなかったようだった。もうそうなったら着るに着れない。良い物だったから勿体無いとは思ったけど仕方がない。
茜色の裾を眺め、ふいにあの銀色の瞳を思い出す。
魚さんどうしているのかな。あれからどこに行ったんだろう。
紅い鬼は魚さんが逃げたことを知っているの? もう追っ手をだしたりしているとか? だとしたらうまく逃げて欲しい。辛い目に遭っていたみたいだし、多少ひっかかるところはあるけれど、私にとって恩人なのは変わりない。
でも結局何を思っているのか分からずじまいになっちゃったな。みっちゃんのことも、もっと何か知っていたと思ったんだけれど、なんだかんだでそれも聞きそびれていた。
「気に入らないカナ」
「え?」
紅い声にはっと現実に引き戻される。
鬼が後ろで酒を飲み干す音が聞こえると、畳の上に盃が足元に転がってきた。
「脱げ」
「えっ!?」
盃を追っていた目が特に何を見るわけでもなく止まる。
え、今、今、ななな、なんていったの?
硬直する私の背後から後ろで留めている帯が引っ張られ、身体が揺れる。
「ちょちょっと待ってください!」
鬼の手から逃れようともがくが、私を抱える紅い腕はまったくビクともしない。これは本当にまずいっ!
「嫌ですっ! やめて下さい!」
「安心しろ。お前の裸見たってど~~も思わん」
「ほっといて下さいっ!」
第一そういう問題じゃないし!
浴衣の下にそれ用の肌着はもちろん着ているけれど、下着はつけてないのだ。下着を催促したことはあるけれど貰った例はない。どうして下着をくれないんだろう。妖怪って下着つけないの? それとも下着の存在をしらないの?
何にしたって浴衣を取られたら肌着一枚になってしまう。そしたら肌が透けちゃうじゃない! それだけは嫌っ! ううん、透けなくても嫌だけど!
「んん?」
鬼の手がピタリと止まる。するりと胴に巻いた腕の力を緩めると、長い指をお腹と帯の間に突っ込んだ。私が慌てふためく前に鬼さんが素早く紅い指を引っ込めると、指には四角いものが二つ挟まっていた。
それを見て私は自分の顔が凍った気がした。
だってそれは魚さんがくれた、出る目を自在に操れるサイコロ……。
「なんだこれは?」
「そ、それは、魚さんに、お店で買ってもらったんです」
しまった。どもってしまった。
お店で普通に売っているものなら鬼だって気にとめたりはしないだろう。そう思ってつい言ってしまったけれど、不審に思われたかもしれない。
大事なサイコロだし本当のことを言って取り上げられたりしたら大変。内心ハラハラしながら背後を窺った。
「お前がねだったのか?」
『いいえ』と言ったら魚さんが余計に立場が悪くなるのかな。でも私から欲しいと言った事にしたら、怪しまれないですむかもしれない。
いや、でもなんでサイコロなんて欲しいのかって聞かれたらなんて答えていいんだろう。なんとか良い言い訳は……。
「ほぉ~。ずいぶんと魚に懐いたナァ、鈴音」
私がごちゃごちゃ悩んで黙っていたのを鬼がどう捉えたのか、どこか嫌味っぽく言ってきた。そして顎を背後から掴み、私の耳元に口を近づけ
「ナァ鈴音。お前の飼い主は誰だ?」
そう囁いた。
この場合は紅い鬼だと答えなければいけないと分かっていた。けれど、どうしても言いたくなかった。
飼い主と何だっていうの? 私はペットなんかじゃない! 怖い思いをするかもしれないと思いながらも、私は口を真一文字に結んで黙った。
「主人は誰だっ!?」
すぐそばで雷でも落ちたかのような鬼の声に、一気に内臓が震え上がった。
だめ! やっぱり怖いっ!
ぎゅっと目を瞑って身体を縮めた。びりびりと畳にまで鬼の声が響いて振動が伝わる。それが静まると、自分の心音だけが耳に残った。
「まぁ~ったく」
溜息を吐きながら鬼は少し身じろぐと、強張った表情をしている私の顎を掴んで、猫の喉を撫でるように私の下顎を指でなぞり始める。
「せっかく可愛がってやろうと思っているのに。お前はつれないナァ~」
罵声を上げたばかりとは思えないほど優しく上機嫌に顎や首筋を撫で回す。
相変わらずつかめない鬼の性格。気紛れにしたって変わりすぎる。
鬼にされるがままになりつつも、目の端で赤い手のひらで転がされている二つのサイコロが気になって仕方がない。きちんと返してくれると良いんだけれど。
元の世界に戻るための切り札。自分が帰れないとしても、うまく使えば何かに役立つはず。
元の世界。元の日常。
ふっとあの川原の光景が浮かび上がる。
「……あの、鬼さん」
少しの間を置いてから私は切り出した。
「うん?」
返事をしながらも、私を撫で回す手は止めない。鬱陶しいと思いながらまた口を開く。
「私、友達に会ったんです。みっちゃんに」
「……会った?」
ピタリ。鬼の手が止まる。
「はい」
「どこで?」
「川原です。お店がたくさん並んでいる所の近くでした」
「ほう」
また手の動きを再開するが、今度はゆっくりと私の髪を弄び始める。紅い指に髪が絡まれるたび、私の頭が揺れる。
「みっちゃん、白い鬼と一緒に行ってしまったんです。鬼さんなら何とかできるでしょう? 約束通り、帰してくれるでしょ?」
振り向きながら鬼の返事を待つ。
鬼はふむ。としばらく考え、唸った。
「お前、その娘にまた会いたいか?」
「え?」
「会いたいか?」
突然の質問に目を何度か瞬かせる。
そりゃ、会えるならまた会いたいけど……。
「も、もちろん会いたいですけど」
「よし。帰らせる前に会わせてやろう。ただ時間が掛かる」
帰らせるって。
信じられない気持ちで振り返る。深紅の瞳と目があい、そのまま見つめ続けた。
「みっちゃんは本当に帰れるんですね?」
「帰るも何も」
眉を吊り上げ、やや小首を傾けると皮肉げに口端も吊り上げた。
「帰っていたハズさ。本来ならナ」
「え? どういうことです?」
鬼はこちらをチラリと見る。獣が相手を伺うような鋭さで。
自分がなんだかしてはいけない質問をした気がして居心地が悪くなり、視線をそらす。
「ま、会うにしても、帰すにしても時間が掛かる。しばらく俺とのんびり遊ぶとすれば良いカナ。お前を飼ってからのんびりかまってやれなかったかしナァ」
ぎゅうっとそのまま向かい合った状態できつく抱きしめられる。苦しさに喘ぎつつも、頭の中は深い霧に覆われていた。
真相が見えない不安か。もしくは鬼が私を抱きしめる力か。どちらのせいで今胸が苦しいのか、私は分からなくなっていた。