第十怪 灰色の思い
「紗枝様」
背後から声をかけられ振り向く。
「魚さん」
背後の暗闇の中に灰色の影が立っていた。私はそれを見つめ、呆然としたまま呟いた。
魚さんは平たい手を何度かひらひらさせた後、息を吐きながら重たそうに口を開いた。
「時間がございませんのでぇ手短にお話しましょう」
何か覚悟を決めたように、ひたりと私に淀んだ目でまっすぐ視線を向ける。
「私は嘘を申しましたぁ。光子様とはぁ何度かお会いしたことがぁございます」
「え……」
「私は紅い鬼様にぃ、仕えた時からさんざ虚仮にされて参りました。なのでぇ一泡吹かせたいと、常日頃から思っておりましたぁ」
突然の告白に、私はただ灰色の口から出る話を黙って聞くことしか出来ない。しかし私の相づちがないのを気にせず、魚さんは言葉を続ける。
「そんな時、土蜘蛛の件でぇ光子様の存在を知りました。そしてぇなんとかあの愚痴の鬼様のところにぃ、いらっしゃることがぁ分かりました」
愚痴の鬼。
みっちゃんが蒼い顔をしながら呟いていた、あの白髪の鬼のことなんだろうか。
私のそんな疑問に気づいたのか、魚さんはその鬼がそうだと伝えてきた。
「愚痴と貪欲の鬼さまの目を盗んでぇ、何度かお話をしているうちにぃ、光子さまが抱いている気持ちがぁ私と同じなのだと分かったのです。そして紗枝様。あなた様のこともぉ、光子様を通して知ることになりました」
なるほど。だからそんなに会ったこともないのに、私に親しげに話してきたんだ。
ただ実際に直接会って話したわけでもないのに、こんなに親近感を持ってくれるなんて。二人でなんの話をしていたんだろう。それにみっちゃんが私に対して持っている気持ちってなんだろう。魚さんは同じ気持ちを持っているって言っているけれど、すごく気になる。
「魚さん。みっちゃんと同じ気持ちって何ですか?」
私は思ったことをそのまま訪ねてみた。
しかし魚さんはおもむろに首を横に振る。
「紗枝様にはぁ分かるはずもない気持ちでぇございます」
微笑みながら、どこか蔑むような諦めたような声でため息混じりに魚さんは呟く。私はなぜか魚さんのその様子に、みっちゃんが神社で言った言葉をまた思い出した。
『絶対に分からない』
神社で狂ったように、折り紙を釘で打ちつけて泣いていたみっちゃん。あの光景は狂っていると言うよりも、悲しく寂しげに思えてならなかった。そこで私は気が付いた。あの紅い鬼火と消えていった骸骨をみた時、なんだかみっちゃんを眺めていた時となぜか同じように感じていたんだ。
「ただ光子様と違ってぇ、私は妖怪でぇございます。そこはぁ光子様が紗枝様に対する想いとはまた違うのです」
また違う?
聞こえた言葉に思案してさまよっていた視線を目の前の灰色に移す。
同じ気持ちを持っているけど、想いは違うって……。
「違うって一体何が? 何のことなの? 二人とも私に対して何を想っているって言うの? それに魚さんもみっちゃんもあの骸骨も私には分からないって言うけど。ねぇ、どういうことなの? 全然、意味が分からないよ」
堪らず声を震わせながら訴えた。言いようのない不安に、真相が分からずにいるのはもう沢山! きちんと説明して欲しい。曖昧にしないで欲しい。
不安を露にした私に、魚さんが音もなく近寄ってきた。驚いて後ずさった私の腕を湿った手が掴む。
「な、なに……」
「わたくしにはぁ、先ほど申し上げましたようにぃ時間がございません。もしあなた様が紅い鬼様とぉ、人の世界に帰る勝負をするときにぃ、これをお使い下さい」
手のひらに小さな四角いものを二つ、私に握らせた。
腕を放された後、角砂糖ほどの大きさのサイコロが手の中で転がっていた。
「これは?」
手の上の白と黒のサイコロを見つめながら魚さんに尋ねる。一見、普通のサイコロにしか見えないけれど。
「あなた様が念じた通りの目が出るサイコロでぇございます。人の世界に帰る時のみにぃ、お使い下さいませ。決してぇ他のお願い時にはぁ使ってはなりません」
「え、でも」
返そうと差し出した手を魚さんは優しく押し返し、首を横に振った。
そんな大事なものを私にくれるなんて。人の世界に帰って欲しくないって言っていたのに。
「ありがとう」
私は少し戸惑いつつも、魚さんにお礼を言った。
もちろん、私はみっちゃんのことがあるから帰るつもりはまったくないのだけれども、それでも魚さんの気持ちがどこか嬉しくて、それは言わないでおくことにした。
「じきにぃ、紅い鬼様がぁ参ります」
「魚さんはこれからどうするの?」
「紗枝様をぉ河童のところから、勝手に連れ出したのです。戻ればぁ紅い鬼様は、私を手打ちにされるでしょう」
くるり淀んだ目が回ると、すっとこちらへと銀色の瞳が向けられた。
「私は自力でぇ元の姿に戻る方法を探します。紅い鬼さまの所はぁもう戻りません。またお会いするときはぁ、鬼の姿であることをぉ、願ってくださいませぇ」
「魚さん……」
私を見つめる瞳がまた、宿にいたときと同じように澄んだものに変わっていく。穏やかな闇夜に栄える瞳。
「紗枝様にはぁ、もっとこの常闇の庭をお見せしたかったです。これからぁあなた様を魅せようと思っていたぁ矢先でしたが、今の私では貪欲の紅い鬼にはぁ為す術ございません」
灰色の肌が銀の瞳をしまい込む。そしてゆっくり頭を下げた。
「では、お元気でぇ」
魚さんは丸い身体をのそのそ動かすと茂みの方へと歩み、やがてその身体を草の海の中へと沈ませた。振り返らず、静かに闇の中へと消えていった。
私は魚さんが消えた方向をしばらくじっと眺め、あの言葉だけが私の頭に残って響いている。
『あなた様には分からない気持ちなのです』
『分かんない、絶対に』
『永遠に分かるまい』
私には分からない? 私には?
取り残された気持ちで、闇の怖さも忘れてぼんやりと暗い草原を眺める。落とした笠がふわり風に遊ばれて足元に落ちた。それを拾い、ため息をしながら被る。
「分からない……」
口に出して、小さく呟いた。
「ひゃぁっ!?」
腰に大木のようなものが巻き付き、足が地面から離れてぐるりと視界が回る。緑の土手から暗い空が映る。仰向けになって笠が落ちれば、漆黒の闇夜が瞳に飛び込んできた。
「だ、誰」
「まぁ~ったく。手間のかかる雀カナ」
言葉を遮ったのは、今はもう聞きなれたなまりのある口調。
おそるおそる顎を引いて顔をあげると、ニヤニヤとした紅い顔が見えた。
「鬼さん!」
「やっと見つけたカナ鈴音ぇ」
呆けている私にニヤリと尖った八重歯を見せつける。
「さんざん探したゾ。これでお前さんをのんびり可愛がれそうだナァ」
笑みを深くして笑いかけるが、その笑みは背筋が凍るような残虐性を帯びたものだった。
そうか。鬼さんからしたら私が勝手に逃げ出したと思われても仕方ない状態だ。魚さんが河童のところから無断でここまで移動してきちゃったわけだし。
「あ、あので――ぅっ」
「まぁ~言い訳は屋敷で聞こうじゃないカ」
説明しようとした私に紅い大きな手で塞がれる。そのまま鬼はずんずん歩き出した。
知らず知らずに、私は鬼に抱きかかえられた体を小さくし、胸の前で両手を堅く結んだ。