第九怪 白い渇望
川の水面がまた闇夜を鏡のように映しだした頃、ようやく私はのろのろと立ち上がった。
何もかも分からないことだらけだった。みっちゃんはどうしてあの白い鬼と一緒に行ってしまったんだろう。脅かされているのとは少し違って見えた。それに、何か言いかけていたけれども、結局何を伝えたかったんだろうか。
そこまで考えてはっとした。
そうだ。何にしろ、みっちゃんのことを紅い鬼に伝えて、約束通り元の生活に戻れるようにしてもらわなくちゃ! こんなところでぼけっとしている場合じゃない。魚さんに早いところ鬼の所に戻るように言わないと!
そうと決まればすぐに行動。先を急ごうと振り返った。
「お待ちくださいぃ」
「わっ」
いきなり灰色の顔が視界いっぱいに広がったので、思わず飛び上がってしまう。振り返った先には魚さんが行儀良く手を結んで佇んでいた。び、びっくりした。
「魚さん、いつの間に」
言いかけて先ほどのことを思いだし、開きかけた楕円の口を遮って早口に説明した。
「魚さん! さっき長い白髪の鬼がみっちゃんを連れていったの! 早く紅い鬼さんのところに戻って何とかしてもらわないと間に合わなくなっちゃうかもしれない! 早く、すぐに鬼さんの所にいかないと!」
「紗枝様」
灰色の口が少しばかり息が荒くなった私を諭すように呟くと、ふっと小さく息を吐いた。そしておもむろに背を向けて黙々と歩きだした。
訳が分からなくて、意味の分からない行動に私はどこかもどかしく感じて、思わず『魚さん!』と声を荒らげた。魚さんはその声にちらりと振り返り、ついてくるよう薄い手で促してきた。
もう、急いでいるのに……。何を考えているのか全然わかんないよ!
腹立たしくなりつつも、私は他に何か良い案が浮かぶハズも無かったので、しぶしぶ黙って丸い背中についていった。
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「どこに行くんですか? 紅い鬼さんのところに帰るんですか?」
何度目かの質問。まったく同じ内容だけど、魚さんはずっと黙っている。答える気がないのかな。
枯れ木と枯れ草が広がる荒野。風が湿った空気で草木を撫でる以外は、私たちが歩く音しか聞こえない。後ろを振り返っても、すでにオレンジ色の明かりは見えなくなっていた。
なんだか寒い。ぶるっと体が震える。気温の寒さもあるけれど、別の寒さも感じる。魚さんから視線をはずし、荒野の様子を観察してみる。
月は姿を消し、空はただ真っ暗な闇が広がっていて、辺りは枯れ木と自分の背丈ほどある乾いた草が生い茂っていた。
それにしても、どうして月明かりもないのに草木がはっきり見えるんだろう。草や木や地面が自ら光っているわけでもないみたいだし、まるで見えない照明がどこからか地上を照らしているような、不思議な光景だ。
沈黙と悪寒に心が支配されようとしている中、早く紅い鬼さんに会いたいという気持ちだけで、私の心は支えられている状態だった。もちろん会いたいというのは友好的なものじゃ決してない。あくまでみっちゃんをきちんと返せる約束を果たしてもらうためだ。
でも。はっきり言って私は混乱している。
何がなんだか分からない。
みっちゃんも。魚さんも。紅い鬼も。
……。
紅い鬼に関しては元から意味が分からないから今更なんだけれど。
でも魚さんとみっちゃんに関してはなにか引っかかる感じがして仕方ない。とても複雑な感じがする。
「あ……れ……」
小枝を踏んだところで我に返り、辺りを見回す。
「魚さん?」
右に左に視線を走らせるが、魚さんの姿が見あたらない。見えるのは自分より背の高い枯れ草ばかり。
ま、まさか、はぐれた?
ざっと勢いよく血の気が引いた。荒野に一人。あたりは真っ暗。月の明かりもない。
「魚さん!」
恐怖にかられてありったけの声で叫ぶ。
緊張から体の各箇所が違うリズムで震え出す。手足が異常なほど震えてうまく立てないし、言葉も出ない。
魚さんはどこにいったの? ここはどこなの!?
「さ……」
もう一度叫ぼうとした。でも声は出なかった。
目の前のなにかと目があった。でもそれはきっと気のせいなんだと思う。だってそれには目がないんだから。
「人だ……人間がいる」
木枯らしのような、掠れた声。それが茂みからカタカタと体を鳴らしながらゆっくりと現れた。
私、どうしてこんなに驚いているんだろう。ホラー映画だって、お化け屋敷でだって見慣れているはずなのに。ただの骸骨のはずなのに!
茂みから現れたのは長身の骸骨。着物も何にも着ていない、理科室に飾ってあるような見事な骸骨が独りでに動いている。
「嗚呼なつかしい……人の姿よ」
意味の分からない私に、骸骨は嬉しそうに黄ばんだ骨を動かして私に腕を伸ばしてきた。
反射的に私は逃げた。
弾けるように駆けだし茂みの中をぐちゃぐちゃに走り抜けた。
絶対に振り返らない。ただ全速力で前へと進む。
自分が骸骨が動くだけでこんなに驚いて怖がるだなんて意外だった。どこか冷静にそんなことを思いつつも、腕で草をかき分けることも忘れて走っていた。
そろそろ息も切れてきた。足も痛い。
肩で息をしながらついに足を止めて、その場で屈み込んだ。ぎゅっと目をつぶり、耳に神経をかき集めて音を探る。
何かが動くような、追ってくるような音は聞こえてこない。
「逃げきれた?」
ほっと胸をなで下ろそうと下を向いた。酸欠で頭がくらくらする。
額の汗が顔を伝い、顎に流れるとそのまま重力に従って落ちていく。それをそっと開けた瞳で何気なしに見届け、凍りついた。
汗が落ちたその先に、あの白い骸骨がこちらを見上げていた。
「――――っ!」
一瞬目の前が暗くなるも、理性を総動員させて気力を振り絞る。こんなところで気絶したら生きて帰れない! 気絶している場合じゃない!
「待て」
冷えた金属のようなものが無理やり振り返った私の足首に絡みつく。途端に私は前に倒れ込んだ。弾みで被っていた笠が飛ぶ。痛みに顔を歪ませるが、それを目にして気がついた。
なんで人間ってばれたの? 笠だって被っているし、匂袋だって持っているのに。
「やっと、やっと見つけた。熱と肉を持った人間」
二の足にガシリとした感覚を覚えて跳ね上がる。下を振り返れば骸骨が迫ってきていた。
「な、なにを」
「温かい、生気に満ちた人間が。生きた人間が」
足から這うように私の上に上ってくる骸骨。それが私に覆いかぶさると冷たい空気の固まりがお腹の上に乗っているような奇妙な感覚に包まれる。
「ここは暗くて寂しい。心も体も、凍てつく寒さよ」
白い顎が音もなく上下する。
「だが、お前がここにいる。ずっとずっと」
「い、いや……」
「これからは寒くない。凍えることもない。永遠に」
泣いている様な掠れた声。どこから発せられているのか分からないけれど、確実に耳元に近寄っている。
「お前はこれからずっと、俺といるから」
『永遠に』と耳の真横で聞こえたその瞬間、私の中の何かが限界を達し、髪の毛が逆立つのを感じて絶叫した。
「いやあぁっ」
私は持てる力を全部、身体の上に居る骸骨にぶつけた。骸骨は驚くほど簡単に宙を舞い、おもちゃのようにガシャッと音を立てながら地面に落ちた。
「置いていかないでくれ。ずっと一緒にいてくれ。慰めて欲しいだけなんだ。生気を分けてくれよ」
ばらばらになった骨から、まだ声がする。これは何なの?この骸骨も妖怪なの? でも妖怪って言うより幽霊に近い気がする。どちらにしろ危険なことにかわりはない。
「寂しい……寂しい……」
逆再生の動画でも見ているように、骨がまた元の姿に戻り始める。足から順に組み立てられ、最後に頭が添えられる。
「どうして俺がこんな目に遭わなければならないんだ。どうして我等が」
空を仰ぎ、ぶつぶつ言いながらこちらに足を踏み込んでくる。
まずい。また追いかけてくる気かも。
私は後退しながら立ち上がった。笠を拾いたかったけれどもすぐに走れるようにしたいから、笠に気を取られるわけにいかない。
「なんだってこんな身体にならなければならないんだ! 俺達が何をしたって言うんだ!」
エコーがかった声が辺りに響く。はっとして外れかかった視線を白い影に向ける。
上を向いていた頭蓋骨が真正面に居る私に向けられると、やはり表情がないまま、白い顎を動かした。
「羨ましい。恨めしい。お前の持っているものが欲しい」
「私の持っているもの?」
眉を寄せて骸骨を凝視する。
特別妖怪とかが欲しがるようなものは持ち合わせていないけれど。まさか自分の命だとか、そういう意味?
「分かるぞ分かるぞ! 輝かしい活気に溢れた日々が! 陰りのない魂が!」
いよいよ意味が分からなくなってきた。思わず呆けていると骸骨が叫びながら飛び掛り、私の袖を掴んできた。
「何のことなの? 私そんなの知らないっ!」
必死に顔を左右に振って否定する。骸骨の言っている意味が全然分からない。私にどうしろっていうの? 袖をつかまれ思い切り引っ張られる。しかし負けじと私も必死に抵抗する。
「ここにいるんだ! お前だっていつかはこうなるんだ! そうなる前に少しでも慰んでくれぇ!」
「やめてっ! いやぁ!」
もみ合いになり骸骨が私の腕を直に掴んだその時、発火音と同時に深紅のが骸骨を包んだ。
これは……紅い鬼の炎。
「この炎は、鬼火なのか……?」
骸骨は二三歩後退するも、特に痛がる様子もなくぼんやりと炎を帯びて佇んでいる。
鬼火が効いていないの? 着物の襟を掴みながら息を呑んで身構える。
「お前は鬼にも気に入られているのか。……そうか」
先程までの勢いをなくし、寂しげにうつむいた。皮も肉もない両手で空洞の目を覆い隠す。
どうしてだろう。私はなぜかその光景に何度目かの既視感を覚えていた。
骸骨はよろよろとその場にうずくまると、うぅと呻き声を出しながら切なげな声で私に囁いた。
「だったらお前には分かるまい……。我々の気持ちなど……永遠に……」
骸骨はすすり泣き、そして
「分かるまい」
最期の言葉とともに、炎と一緒に跡形もなく消えていった。
「分からない……って?」
骸骨の『分かるまい』という言葉にふと神社で泣いていたみっちゃんが頭を過ぎった。彼女もまた、私に『分からない』とあの時訴えていた。
骸骨から逃げられた安堵感よりも更に深くなった疑問に、私はただ一人、身を硬くした。