第二怪 紅い呪
暗闇の中、突然目の前に紅い目が現れ、顎を掴まれた。
身体は金縛りにあったかのように動かない。心臓がひどく早鐘をうつ。
「さあ……俺の目をよぉく見るんダ」
逸らす事を許さないという鋭い眼。
手の先がピリピリと痺れる。
その怪しく光る深紅の瞳に囚われ、次第に意識が朦朧としてくる。
貧血になったみたいに頭がクラクラし、頭の中がぼんやりとしてくる。
揺らめく意識の中でもがいていると、遠くの方から声が聞こえてきた。低い、ゆっくりとした口調で頭の中にこだまする。
「お前の名は『鈴音』今持つ名を捨て『鈴音』とし、我に魂を捧げろ。『鈴音』の呪を甘んじて受入れよ」
「鈴音……」
口から名前がこぼれる。
その途端、頭の中に甘い霧が蒸気のように立ち込める。
恍惚にも似た様な感覚の中、私はコクリと頷いた。
『そうか、これが私の名前なんだ』と。
「良い子ダ」
かすんだ意識の向こうで鬼がクッと笑ったのが見えた。
鬼は顎を放し、手の甲で私の頬を撫でると、ねっとりとした猫なで声で私に問うた。
「お前の名は?」
「……鈴音」
口が勝手に動いて声が出る。
でも違和感は無い。
「お前の主は?」
「……貴方様です」
鬼は満足そうに笑みを深め相変わらず頬を撫で続ける。
そして暫くこちらを眺めると、口を開いた。
「お前の捨てた名は?」
「捨てた名前……」
名前。捨てた名前。呼ばれていた名前。
混濁とした意識のなかを手探る。
……見つからない。
自分が生まれて初めてもらった名前。自分の存在示す名前。
記憶と心と頭の中を必死で探す。
だめ。
見つからない。
「……名前」
鬼は楽しげに私が名前を探すさまを眺めている。
猫が鼠をいたぶっている様な残虐な眼で私の瞳を覗いている。
「分からないのカナ?」
もう一度記憶の中をまどろみながら探す。
ずっとずっと奥へと。ついこの間まで呼ばれていた名前を。
すると何かが深い霧の奥でキラリと光った。あれはなんだろう。あの光っているのは。
光が溢れる深いところへ。深いところへ探す。
あれは――
「さ……え……」
動いた唇に鬼が眉を寄せた。
ピタリと頬を撫でる手も止まり、ひどく怪訝な表情を浮かべて私を見つめる。
私は淀んだ頭の中にある霧を払いのけて口にした。
「紗枝……私の名前は、紗枝」
紅い鬼は顔を凍らせた。
頬を引きつらせ信じられないと言わんばかりに私の顔を凝視した。
朦朧としていた意識は次第に晴れて行き、ハッと気がついた時には紛れもなく本物の『鬼の形相』というものが目の前にあった。
「いやぁっ!」
溜まらず鬼から離れ、勢いのあまり尻餅をつく。
辺りはまだ暗闇で包まれていて、鬼の両脇にある鬼火が二人だけを照らし、鬼は表情を変えずに私を見下ろしていた。
私は一体何をされたんだろう?
鬼はどうして怒っているのだろう?
訳が分からずガタガタ震えながら鬼を見つめる。
しばらく鬼は微動だにせず顔を引きつらせたままでいたが、ふと、何かを考えるかのように顎に手を当てて唸った。
「おかしいナァー……こんな事があるとは」
目を閉じ俯いた後、一呼吸いれてもとの意地の悪い笑みを浮かべた。
「まぁ、いいサ。お前さんは今この時から『鈴音』ダ。これで一応契約終了カナ」
パンと鬼が手を鳴らすと部屋にある全ての蝋燭に灯りが戻る。
未だに状況を把握しきれていない状態のまま、私は呆然と明るくなった部屋を眺めた。すると突然身体が浮き上がり、驚きの声をあげる。グルリと視点は床へ移り、どんどん遠ざかる。どうやら鬼の肩に担がれたらしい。
「さぁて。お前さんを入れる籠はもう用意出来ているんダ。今から連れて行ってやるからナ」
鬼は愉快そうに笑い、私を担いだまま歩を進める。
私はただただ鬼と契約した実感があまりない自分の鈍感さに半ば呆れつつも、もう二度と元の世界に戻れないのだと改めてかみ締めていた。
これからは日も射さぬ物の怪の世界で、いつ飽きられ食われてしまうかも分からない世界で怯え、戸惑う日々を過ごさねばならないのだ。
「……ッ」
おかしいな
後悔はしていないハズなのに。
鬼に気づかれないように、にじむ視界を何度も何度も擦った。
それでも視界はなかなか晴れてはくれなかった。




