第四怪 青息吐息
お腹減ったなぁ。ぐぅと唸るお腹を抱えて、何度目かの寝返りをうつ。今現在、私は余計なことを言った為に、食事抜きの刑に処されている。
なんとか口に入れるものが欲しくて、試しに子鬼を呼んでみたけれども何の返事もない。あの黄色い人魂のことも気になっていたから、淡藤局さんも呼んで訊ねようと思っていたのに。
仕方ないので横になって眠ろうとするけれども、空腹のために寝ることもままならない。よりによって今日はいつも以上にお腹が減っているらしく、お腹が何度も抗議の声を上げている。
ちらっと部屋の隅に目を向ける。灯籠はまだ明るくならない。
どうしよう。あぁ、お腹減った。大きく息を吐いて目を閉じる。
「お腹減ったぁ……」
先ほどから何度も口にした言葉を呟くと、お腹が応えるようにぐぅと鳴る。灯籠が明るくなったら鬼の機嫌も直っているかな。じゃないと辛すぎる。お風呂もちゃんと入りたいし。
大きく息を吐いたその時、ふと無性に視線を感じてパッと目を見開く。すると目の端に格子の外から見下ろす紅の瞳があった。
「わっ」
ガバッと起き上がり、目を見開いた。鬼は市松模様の赤紫の浴衣を着て、腕組みしながら格子の外に立っていた。慌てて布団から這い出て、貰ったばかりの長襦袢を羽織る。これを使うのはちょっと癪に障るけれど、薄い浴衣のままでいるのは気が引けた。
「い、いつの間に。黙って何しているんですか」
「腹が減ったのか?」
にぃっと意地悪く笑む。
「口は災いの元だナァ」
皮肉げに言って、格子に顔を寄せた。
「何しに来たんですか?」
鬼の態度にむっとして不機嫌な表情を露骨に浮かべた。
お腹の減っているときに、わざわざ嫌味でも言いに来たって言うの? 乱暴な感情が湧き出てくるけれども、あの鬼の怒った顔が頭を過ぎって、すぐに引っ込める。
もう怒っていないんだろうか? 探るように鬼の顔を見るが、今はいつも通りのニヤニヤ顔をしていて、怒っている様子はない。こっそり安堵の息を吐いてしまう。
「いやなに、ちょいと可哀想に思えてナァ」
白い格子に近づいて、見下ろすように私の顔をのぞき込むと
「どうだ鈴音。また勝負しないカ?」
「勝負……」
勝負、ね。頭の中にはあの視界いっぱいの紅い光景が浮かぶ。うーん、嫌な思い出しかない。意図せず渋い顔をしてしまう。
それを察したのかどうかは分からないけど、鬼は勝手に話を進め、ある提案を出してきた。
「お前が勝ったら、そうだナ。きちんと三食飯をつけてやる」
「三食も!?」
いつも二食だったのが三食も?! ぱっと勢いよく顔を上げるが、鬼は人差し指を立てて私の前に突きつけると「ただし」と付け加えた。
ぴたりと喜んだ顔が強ばる。ただし?
「今回は俺が勝ったら……」
勿体ぶるように鬼は一度そこで区切った。にやにや笑うばかりで先に話そうとしない。何なんだろう。
「勝ったら、なんです?」
焦れて鬼に先を促す。ゆらり深紅の瞳が妖しく光ると、顔を近づけて囁いた。
「心を縛らせてもらう」
心を? 眉を寄せて鬼を見つめ返す。
心って縛れるものなの? 不可解な表情を浮かべる私に、鬼は無表情に小さく頷いた。なんだか怪しい。怪しすぎる。
「嫌です」
訳の分からない取引はしたくない。私は首を横に振った。第一心を縛るなんて、出来る出来ないはともかく、ろくなことじゃない事だけは確かだ。私はもう一度絶対にという言葉を取り付けて嫌ですと繰り返した。
「ほお? じゃあ、いつ飯が出てこなくなっても良いんだナ」
「そ、そんなのずるいですっ」
口をとがらせて、呟く。しかし私の思いとは裏腹にお腹がまたぐぅと鳴る。
うーん背に腹は代えられないってこのこと? でも、ご飯だけで訳の分からない約束するのもちょっと……。目を泳がせて両手をもじもじさせる。少しの間考えていると、ふと、ある案が思い浮かぶ。
「あの、一つ、追加しても良いですか?」
「うん?」
「もし私が勝ったら、三食のご飯と、残っている友達が誰なのか教えて下さい。そして会わせて下さい」
これで無理なら断ろう。私は決心した。見上げて鬼の返答を待つ。ふむと鬼は顎に手を当てて目を閉じた。そしてしばらく考えをめぐらすと、口角を上げて目を開けた。
「よし、分かった」
鬼はにやり笑い、紅い目を細める。
「お前が勝てば、飯と友を。俺が勝てば心を。それで良いな?」
「はい」
両手で拳を作って頷いた。
鬼はぐっと突き出した手のひらを上に向け、開いた。紅い手の中にあったのは、大豆ほどの白と黒のサイコロが二つ。
「お前、賭博を知っているか?」
「え?」
鬼はまた懐から黒い、鬼の片手ですっぽり包めるほどのぐい飲みを取り出し、目の前に掲げて、まるで品定めするように眺めた。
「丁か半かを賭けるんだが」
「あぁ、はい。知ってます」
おじいちゃんと一緒に、何度もテレビで時代劇を見ていた。悪党の根城は賭博か悪代官と相場は決まっていて、その後には正義の御老公か、お侍様からお仕置きされるのだ。 丁か半を賭けるシーンも何度も見ている。
ひたりと鬼を見、唇を結んで、顎を引く。覚悟は出来た。
「あぁ、念のために言っておくガ、このサイコロは術が一切効かない。負けたからって言いがかりはきかんぞ?」
言いながら鬼は私に座るように促し、自分も畳に腰掛けた。
「もちろんです」
まっすぐ見つめて言い返し、私も格子のそばに正座する。そんな私にほんの一瞬、対の紅が目を見開いたが、すぐ猫のように細め、カラカラとサイコロを手のひらで踊らせた。
「では」
言ってぐい飲みの中にサイコロを放り込み、一、二回ぐい飲みを鳴らすと、バンと強く畳に打ちつける。
「さぁ、丁半賭けナァ」
どっちだろう。丁度か半端か。ぐっと着物の裾を掴んで無意識に歯を食いしばる。どっちだろう、どっちなんだろう。逆さになったぐい飲みを見つめるが、中のサイコロが見えるわけもない。
「まだカナ?」
視線の上から声をかけられる。
丁か、半か。半か、丁か。丁と半。
……うん、よし。決めた。顔を上げて口を開く。
「半で!」
深紅の瞳がゆらめくと紅い手が動いて、黒のぐい飲みが傾く。じっと瞬きも忘れてそれを見つめ続ける。
まずぐい飲みの陰から現れたのは白い三。ごくっと喉が鳴る。そしてもう一つは……。鬼がぐい飲みを畳から離す。紅い陰から出てきた黒い数字は、五。丁だ。
「ま、けた?」
さぁっと顔から血の気が引く。手足と口が、わなわな震え、喉が閉まる感覚を覚える。
「いやぁ、残念だったナァ」
ちらり上目遣いで鬼がこちらを見やり
「俺の勝ち、だな」
そう言ってサイコロを回収した。
はぁっと大きく息を吐いて、うなだれる。負けた。負けちゃった。せっかく友達に会えるかもしれなかったのに。これでご飯も友達も無しだ。震えてきた喉を誤魔化すように、また深くため息を吐いた。
「そんな顔をするな鈴音」
大きな紅い手が自分の頬に伸ばされる。
「悪いようにはしない」
頬にあった手は頭にまわされ、猫の背を愛撫するように何度も髪の上に滑らした。
「友には会わせんが、飯はきちんと出そう」
「え?」
「その度胸に免じて、飯は用意しようカナ」
信じられないと目を上げる。どういう風の吹き回しだろう。
意外な言葉に目を何度も瞬かせ、両目で鬼の顔を穴が空くんじゃないかと言うぐらい見つめ続ける。
「だが――」
ぐいっと私の顎をあげ、額をあわせると
「心は縛らせてもらう」
鈍く紅が煌めき、目が離せないと気づいた瞬間、私は甘い感覚の波に突如飲まれた。大きな目眩を覚え、危うく格子に頭をぶつけるところだったが、外から鬼が体を支え、それを防いだ。
紅い手が改めて私の顎に添えられ、視線を合わされる。映る視界は水面のように歪んでいてよく見えない。それでも妖しい紅だけは鮮明に映った。その下で八重歯の見える口が動いているのが見えるけれど、そんなことはどうでも良い。
綺麗な紅。どうしてこんな素敵な紅を恐ろしいだなんて思ったんだろう? 花も宝石も霞んで見えるぐらい美しすぎる妖しい紅。それがずっとこちらを見つめ返している。思考が停まって睡魔にも似たような恍惚が広がってくる。
そう言えば、この感覚は前にも一度あった。鬼に連れ戻され、名前を奪われそうになった時に、この甘い霧が自分の中に立ち込めて自分を飲み込んでいく感覚。今回もまた、それと一緒だった。底なし沼の上に立っているように、ずぶずぶ恍惚に沈んでいく。
ごめんね……。
え?
聞こえた声と一緒に、甘い霧の中に鋭くて冷たいものが横切った。火照った意識に冷水がかけられ、一瞬にして霧は退いて視界が晴れていく。
「え?」
一気に現実に引き戻され、恍惚という熱が引いて正気に戻った私は呆然とし、固まった。
今のは一体なんだったんだろう。小さな、だけれどハッキリ聞こえた声。聞き覚えはあるんだけれど、声が小さすぎて、その上意識が朦朧としていたせいもあって、誰だか思い出せない。すっかり混乱して思考が停まるが、鬼の顔がすぐ目の前にあるのに気がついて跳ね上がる。
「今、何したんですか!?」
距離をとろうとして体を引くが、顎を鷲掴みにされて阻まれてしまう。私は鬼の大きながしりとした紅い手を掴んで、剥がそうと必死にもがく。そんな私を無視して鬼は呆れたようにため息を吐くと
「これもダメとはナァ。ちょいと気を抜きすぎたカ」
一人ごちて顎から手を離し、腕組みした。私は捕まれた顎をさすって、上目遣いに鬼を見る。
「何をしようとしたんですか? というか、今のは何だったんですか?」
「うん?」
「呪いを、掛けていたんですか?」
「ま、そんなものだ」
そんなものって……。身構えて訊いた私の質問に、肩をすくめて気軽げに鬼が言ったので、どこか拍子抜けしてしまう。鬼はぽんと自分の足を叩き、立ち上がると大きく伸びをする。
「とにかく飯は用意しよう。今日はもう眠ると良いカナ」
踵を返して、いつもの襖に向かおうとした鬼に慌てて声をかける。
「ちょっと待って下さい! 今もらえないんですか? お腹ペコペコなんです!」
「あぁ、分かった分かった」
振り返らず、紅い手をひらりとさせる鬼。本当に分かっているのかなぁ。眉を寄せて顔をしかめる。
それにしても、さっきのあの感覚、あの声。あれは一体……。
様々な疑問と不安を抱きつつ、私は襖を開ける紅い背中を見送った。