第三怪 青一点
どこからか、三味線の音が聞こえる。
雅な音楽に睡魔を呼び寄せる長唄。なんだか懐かしい。おばあちゃんの優しい声も聞こえてきそう。
そんな事を思い出しながら心地よく眠っていたのに、誰かがゆらゆら自分の体を揺さぶっている。
もう、よしてよ。自分を揺らす何かを手で払いのける。なんだか手がべったりする。気色悪いと思いながら、うっすらと目を開く。
「うっわぁああ」
変な声を上げて、私は大きく跳び退く。格子の外から黄色く光る小さな丸い目が、蛍の群のように自分を囲んでいたのだ。まるで珍獣でも見るかのような、そんな好奇の眼がふんだんに自分に降り注いでいる。
「な、な、な」
「おぉ、目が覚めたカ」
声が聞こえると同時に、格子の外の黒山ならぬ緑山がすっと退いた。退いた先には鬼が梅の根本であぐらをかいて、誰かとお酒を飲み交わしていた。
「さすが旦那。ずいぶん活きの良いのを飼っていますな」
高い猫なで声で、誰かが鬼に酌をしている。目を細めて隣の人物をよく見てみる。
水掻きの付いた手に深緑の体、とがった口に頭の上には丸いお皿。そして口元に筆先のような髭が伸びていた。あれはもしかして、河童?
そこから視線を外して、上目遣いで辺りに視線を走らせる。いつの間にか沼を河童たちが囲って宴会を開いて盛り上がっていた。歌い踊る河童がいれば、相撲を取ったり、お酒の飲み比べをしている河童もいる。そんな緑の中に一人、河童とは違う人影が見えた。
沼の側で腰掛け、三味線を鳴らして艶やかな口からは長唄が流れている。生暖かい風が吹けば、そのしなやかな長髪がなびいた。
「いや本当に元気の良い人の子だ。尻子玉抜いても良さそうだし、孕ませても良さそうだ」
孕ませ……!?
素早く不穏な事を言った河童へと振り返る。こちらには見向きもせず、せっせと鬼に酌をしている髭の河童。確かに今、この老河童が孕ませてどうのって言った!
一応、孕むって言葉は知っていたけれども、それを耳にする場面に出くわした事が無かったせいか、いやに動揺してしまう自分がいた。なんだかすごく不愉快というか、生理的に受け付けない。真っ青になって鳥肌がたっている腕をさする。なんだか気分悪い。
「こいつはまだ子供だ。それに孕ませたら面倒になるだけカナ」
「ははは。左様で」
髭の河童は相づちを打ちながら鬼の盃にお酒を注いだ。 うーん。安心して良いのか、怒って良いのか。とりあえず、そういう対象になっていないことにほっとする。
「鬼様。人の子も良いですが、わたくしの唄も聞いて下さいな」
凛とした声に、その場にいた全員がそちらへ振り向いた。沼のそばで三味線を弾いていた髪の長い女性が、にこりと鬼へ微笑んでいる。
「聞いているさ。唄の君」
うたのきみ?あだ名……だよね。きっと。
その人が青い着物をゆらりと揺らして、幽霊のように沼の上をつぅっと滑るように渡る。鬼のいる岸についたとき、彼女の影を見て、思わず「えっ」と声を漏らした。
着物の裾からは見えるはずの足はなく、代わりに太くて青い蛇の胴体が見えた。どうにかして人魚の見間違えと思いたかったけれど、鬼とそのそばにいる河童を長い胴体で囲むのを見て、改めて蛇だと認めた。
「蜘蛛の一件、聞きましたわ。もう金輪際、蜘蛛なんかおよしになって、わたくしの歌声をもっとお耳の近くで囁かせて下さいまし」
艶っぽい声と眼で鬼の方に白魚の手をかける。しかし、その横で青い鱗を忌々しげに叩く老河童。
「おい、濡れ女。邪魔だ! 今ワシが酌をしていたんだぞ」
「臭い老いぼれ河童はだまって頂戴」
ひと睨みして鬼と河童の間に無理矢理割って入る。その際河童からひょうたんをちゃっかり拝借して、鬼の盃に注ぎ、また微笑む。
「お酌ならわたくしが」
「おぉ、すまないカナ」
「今度は是非、わたくしの所へも通って下さいな。近頃お屋敷へのお招きがないので、寂しいですわ」
彼女の表情はまさにウットリという言葉がぴったりだった。
なんというか、あの口裂け鬼のどこが良いんだろう? ただ単に媚びを売っているだけなのかな? それとも本当に好きなのかな?
青白い顔なのに、頬だけをほんのり赤らめる彼女を眉を寄せて眺める。ちらり鬼の方も見てみるけど、鬼もまんざらじゃないみたい。
「なぁなぁ」
「わっ」
裾を引っ張られ、反射的に飛び上がる。
私の着物の裾をむんずと掴んでいる手元を見て、目を見開く。今裾を掴んでいる一人をのぞいて、四、五人の河童たちが格子の中に手を入れ、私の着物を掴もうと伸ばしていた。慌てて羽織っている着物を脱ぎ捨てて、手の届かないところへ逃げる。
「逃げるなよぉ」
「もっと近くに来いよ」
「お前、人間だろ。触らせてくれ」
無理! それに怖い!
気が付けば、映画で見たゾンビみたいに、前後左右から無数の腕が自分に伸びてくる。必死に腕で体を抱えて小さくなるが、河童の指先が自分の体に何度も掠める。
「こら! よさないか!」
手を鳴らす音が河童たちの動きを止めた。腕を伸ばしていた河童たちが、そちらをむいて拗ねたように不満の声をあげる。
「だって頭ぁ。俺たち、人間をこんなに間近で見たことないんすよ。頭達の代は良いけど、俺らはいつも遠巻きにしか見ていないんだから」
「お前はまだ良いよ。俺なんか、常闇から出たことないんだぞ」
そーだそーだと、格子の周りにいた河童達が騒ぎはじめたが、鬼の横に座っていた老河童が立ち上がり、雷鳴のように一括すると皆黙った。
「紅い鬼様の人間だぞ。怯えさせるんじゃないっ」
このひと言で、しぶしぶ河童達が格子から腕を引っ込める。それでも名残惜しそうにきょろりと動く眼達が私を捉えていたので、ほっとする事が出来ない。
それにしても人間を見たことない妖怪がいるんだ。以前子鬼が話していたみたいに、人の世界に行くには偉い妖怪の許可がなければいけないみたいだから、生身の人間を見たことが無い妖怪がいてもおかしくはないと言うことか。
「ちぇっ。尻子玉抜こうと思ったのに」
振り向きざまに私を見ていた一人の河童が呟く。
「お前みたいなドジが出来るわけ無いだろ」
「なんだとお!」
格子のすぐ側で取っ組み合いが始まり、周りの河童達がやんやとはやし立て、二人を取り囲んだ。これでやっと注意がそれた。ふぅと小さく息を吐き出す。
ふと、思い出して紅い鬼へと視線を移すと、鬼の肩には下半身蛇の女性がもたれ掛かり、何か話しているみたいだった。ずいぶん積極的な女の人なのね。
鬼は皮肉そうな笑みを浮かべて、休まず口に酒を運んでいる。ちらりとこちらを見ると、にぃっと口角をあげた。
なにその人を馬鹿にした笑みは。腹立たしい感じがして、むっとしてしまう。
「人の子」
「え?」
振り返るとすぐ後ろに、紅い鬼の横に座っていた老河童が佇んでいた。
「うわぁあ」
何度めかの叫び声をあげて、立ち上がる。その声に一斉に周りの河童達がこちらを見た。
「あ! 頭ぁ、ずるいっすよぉ」
「俺も入れてくれぇ!」
「黙らんかっ! まったくイタズラ小僧どもめ」
老河童はぶつぶつ文句を口にしながら、足下に落ちている私がさっき脱ぎ捨てた着物を拾った。
「ほら、羽織れ。風邪をひかれては、まずいからな」
苦い顔をしながら私の胸に突きつけた。
人間が嫌いなのかな。私が着物を受け取ると、ふんと鼻を鳴らして籠から出ていく。そして格子から覗いていた河童達を猫でも追い払うかのように、しっしと手を振った。
「さて、そろそろ行こうカナ」
鬼がおもむろに立ち上がり、盃をくわえた。
「もうお帰りになられるのですか?」
「あぁ」
「そんな。寂しいですわ」
すがるように鬼の腕に体を寄せる。その俯き加減が本当に悲しそうで、今にも伏せた目から涙がこぼれそうだった。そんなにこの鬼と離れるのが嫌なの? 私には理解しがたかった。
「お願いです。もう少し、お側においてくださいまし」
「唄の君」
すっと長い指で彼女の顎を上げる。
「すまないが、人の子をそろそろ連れて帰ってやらねばいけないんでナァ。続きはまたの機会にしてくれ」
「そんな」
はらはらと彼女の目から透明な雫がこぼれた。
もしかして、本当にこの鬼のことが好きなのかな。話の流れから久しぶりに会ったみたいだし。なんだか可哀想。
「じゃあ、な」
口元をつり上げながら、白魚の手からするり、鬼が離れる。彼女は紅い腕が離れた後も、名残惜しそうに宙に残った手をそのままにし、やがてそれを胸の前で堅く結んで、整った唇も同じようにした。
鬼は振り向きもしない。お酒を飲んで上機嫌に鼻歌を歌っている。
なんて非情なんだろう! あぁ、見てられない!
「あのー」
思い切って、だけれど遠慮がちにその二人に声をかけ、手を挙げる。
「私だけ帰っても良いですよ」
鬼ばかり見ていた瞳が、初めて私に向けられる。ぽかんとしている彼女に、私はなるべく親しげに言った。
「私は先に帰りますから、遠慮せずお姉さんは鬼さんと一緒に飲んでて下さい。鬼さんも――」
言いかけて、突如喉が閉まるような感覚に襲われて黙る。目の前から刃物の切っ先を突きつけられているような視線を感じて、体が強ばる。気が付けば鬼が顔をひきつらせて、こっちを射殺さんばかりに睨みつけていた。
な、なにかまずい事言ったかな。気を利かせたつもりだったんだけれど。
「お前さんがいったい、ど~やって帰るんダァ?」
ずんずんこちらへ大股で歩いてくると、格子越しに私を見下ろした。あまりの凄みに体が縮こまる。
「歩いて帰るのか? 泳いで帰るのか? それとも飛んで帰るのか? ん?」
「すいません……ごめんなさい……」
俯いて震える。
しばらく誰も音を起てなかったが、鬼が小さく息を吐くと声を上げた。
「すまんナァ、唄の君。躾がなってなくてナァ」
梅の根本で佇んでいた彼女が呆然とした表情で、一瞬なにを言われたのか分からなかったみたいだが、すぐにまたにこり笑みを浮かべる。
「いえ。お可愛らしいですわ」
口元を袖で隠し、ふふっと声を漏らしながら応えた。
鬼は沼の側で座っていた河童にも向きなり、ひらりと手を振った。
「今日は楽しめた。また飲み交わそう」
「今度は邪魔など入らんよう、ワシの川でおもてなし致しましょう。ではまた後ほど」
周りの河童を促しながら、頭を下げ、他の河童達も彼に習って頭を下げた。
鬼が人差し指を立て、大きく息を吹きかける。そこから紅い炎が梅の木へまっすぐ走ると梅の木は大きな火柱になり、竜巻のように渦を巻いて沼の中へ消えていった。
鬼は無言で籠の中へ入ると、私の腕を勢いよく鷲掴みにした。すごい力で掴まれたので、痛みに顔を歪ませる。痛いと声を上げそうになったけれど、鬼の憤怒の表情を前にして飲み込む。
ここへ来たときと同じように鬼が大きく腕をなぎ払うと、紅い炎が籠を覆い、視界いっぱいに広がる。やがて次第に炎が消えて静かになると、灯籠の柔らかな光が白い籠と閻魔顔の鬼の横顔と、そして情けない顔をした私を照らしていた。
「鈴音ぇ」
底から響いてくるような低い声に肩が跳ねる。横を向いたまま、鬼が紅い目だけをこちらへ向けてくる。腕を掴む力がさらに強まる。い、痛い……。
「いったい、どういうツモリだぁ?」
痛みと恐怖で視界が歪む。
そんなにあの女性に言ったことが悪かったのかな。
「ごめんなさい……」
顔と同じくらい情けない震える声で謝り、目頭を熱くした。
鬼は乱暴に私の腕を放すと籠から出て、また乱暴に出入り口を閉め、見慣れた南京錠をかけた。
「お前は今日は飯抜きだ! 分かったなっ」
吐き捨てるように言って、鬼は部屋から出ていった。閉じられた襖の向こうで、どすどす大股に歩く鬼の足音が闇に消えていくのを感じた。
私は安心からか、恐怖のためか。その場に倒れこんで一人静かに泣いたのだった。