第二怪 枝垂れ紅梅
まぁ、ね。籠から出さないと言ったそばから外でお酌なんて言うから変だな、とは思っていたけど。まさか『籠ごと』外に出されるとは思わなかった。
鬼に腕を掴まれて立ち上がる。鬼はそれを確認すると、大きく腕をなぎ払った。
足下から紅い火が大きな波紋のように広がり、轟音が鳴り響くと同時に、畳が波を打って揺れた。よろける私を腕で支え、鬼が手をひらりと舞わせる。紅い火が燃え上がり、視界を覆った。
なに!?
何がどうなってるの!?
怖くなって両手で顔を隠し、指の隙間から辺りをうかがう。炎の波が向こうの闇に広がって消えていく。途端にしんと静かになって、何の音も聞こえない。
目を瞬かせてみるけれど、指の間から見えるのは闇だけだった。
「良いところだろう?」
「え?」
鬼は私の両手を顔から下げさせ、前を向かせる。目に映るのは夜より深い闇があった。あのお化け屋敷独特の湿った空気と匂いがそこに充満していて、背筋がすぅっと寒くなる。そして目が暗闇になれると、籠の向こうに広がる星のない真っ暗な空と、すぐそこにある真っ黒な沼が目に入った。
籠の格子を掴んで沼をのぞき込む。底の見えない沼の水面からは、蓮のような花が儚げ光を放って咲いていて、それらを見下ろすのは刃のような深紅の三日月だった。
「……」
ごくりと生唾を飲み込む。
はっきり言って、幻想的というより不気味だった。
沼の周りは草が生い茂っていて、他には何も見えない。時折、風が湿った空気を運ぶと、むこうの暗闇の中に山々が姿を現し、また闇に沈むのを繰り返していた。
「さ、酌をとってくれ」
鬼がひょうたんを押しつけてきたみたいで、どんと背中に衝撃を覚える。
ぎぎぎっと鬼に顔を向けると、震える指で辺りを指さした。
「あ、あの、ここここ、ここは大丈夫なんでしょうか?」
「んあ? 何のことカナ?」
「いかにも何か草むらから、出てきそうなんですけれど」
「あぁ、たまに蛇やら河童が出てくるナァ」
「蛇に河童ぁ!?」
叫んで、格子から離れる。
静かな水面は鏡のように紅い月たちを映すだけだが、突然なにかが飛び出してきたら堪らない。四つん這いになりながら籠の中央に移動する。
「なぁ~に、安心しろ。お前が酌してればなにもないさ」
「嫌ですっ。ここならあの部屋に戻った方が良いです!」
ぶんぶん首を振って鬼の着物の裾を必死に掴む。
「かかか、帰りましょう!」
「お前なァ……」
ため息をつくと、ゴロリとその場に寝そべり私の着物を強く引いた。突然の事に私は小さく悲鳴を上げて、鬼の腰の上に倒れかかり鼻を強く打った。
もう、低い鼻がさらに低くなるじゃないっ。
「せ~っかく鈴音のワガママをきいてやったのに」
紅い長い指で私の眉にかかった前髪をかきあげると、口角を上げた。
鼻をさすりながら鬼の指から逃げるように、上体を起こす。
「た、確かに言いましたけど、まさか、こんな、心霊スポットみたいな所だなんて、思わなくて」
虫の鳴く音もなくただ風が草木を撫でる音しか聞こえない風景を見やり、私は震え上がった。先ほどからじわじわ嫌な汗が背中を濡らし始めていて、悪寒をさらに強めている。
あぁ、もう、早くここから逃げたいっ。
「だから言ったろう? 考え直した方が良いって」
「だって、お風呂場から見えた景色は素敵だったから……」
がっくりと肩を落とす。
籠より外の方が気分転換できると思ったのに、これじゃあ気分が滅入っちゃう。露天風呂から見えた月も、今見上げればホラー映画の蝙蝠でも横切りそうな気味の悪い三日月にしか見えない。
でも露天風呂が素敵だったからと言って、外が素敵だと安易に考えるのも悪いか。
はぁと溜息を吐いてまた肩を落とした。
「おい、鈴音」
ちょいちょいと、再度落とした肩をつつかれる。
「酌。いい加減に酌をとれ」
振り返った胸にずいっとひょうたんを押しつけられ、両手で受け取る。
本当にここで、お酌するの?
信じられないと眼差しで訴えてみる。
「そら、しゃぁ~く」
「ででで、でも」
「それとも俺にこの場で塩漬けにされるカ? だったら」
「やりますっ」
鬼の言葉を遮って半ばやけ気味に手を挙げた。
もうっ、やりますよ。
やればいいんでしょ!!
「美味い酒だナァ~。お前も飲むか?」
「まだ未成年です」
差し出された盃に一瞥して首を振る。
辺りは相変わらず静かだった。草木も眠る丑三つ時って、こんな感じなのかな。さっきから何度めかの溜息を吐いて辺りに目配せをする。
私が住んでいるところは山が見えるし、都会じゃないけどコンビニもあるし、街灯だって道行く道にきちんとある。こんな真っ暗闇な所じゃない。
籠の白い格子から何度も目を凝らして空を見上げても、星一つ見つけることが出来なかった。見えるのはたまに紅い三日月を横切る黒い雲だけだった。
「静かですね」
気を紛らわすように声をかける。
静かすぎて自分の落ち着きのない鼓動がよく聞こえてくる。
「あぁ。たまにはこんな酒の日も良いカナ」
本当に殺風景な光景。
ほのかに灯る蓮の花も、空の闇に押しつぶされて今にも消えそうだった。
嫌な風景だなぁ。全然落ち着けない。
「あの、この常闇はどこまで広がっているんですか?」
ふいに浮かんだ疑問を口にしてみる。
「んん?」
「どこまでも真っ暗なんですか?」
「お前は面白いことをきくなぁ」
そう言ってのんびりと体を起こして、盃を差し出してくる。そこにひょうたんの口を傾けてお酒を注ぐ。
「ここはな、人の闇ほど広い」
ぐいっとひと飲みして、鬼は言った。
「人の闇?」
「あぁ」
「それってどういう意味ですか?」
「そのままの意味カナ」
意味が分からない。
マイナスな感情ってことかな?
私の腑に落ちない表情を見てか、鬼がまた口を開いた。
「今もなお、広く深く、この常闇は大きくなっている」
「今も?」
「あぁ、善い奴ほど鬼が……ってナ」
「え?」
また意味が分からなくて首を傾げてみるけど、鬼はお酒を一口飲んでそれ以上何も言わなかった。
私はただただ口をつぐんで、膝の上においた両手を結んだ。
また息の詰まる空気が流れる。えっとほかに話題は……。
「あ、そういえば、お花見するんじゃなかったですか? どの木を見るんですか?」
沈黙に耐えきれなくなり私は口を開いた。そしてきょろきょろ辺りを見回して目を懲らすが、見えるところに木らしい木は一本もない。枯れ木すらない。
どこにお花見できる木があるんだろう。
「ん? あぁ、そうだったナ」
カツっと乾いた音が響くと、鬼が牙で盃をくわえて立ち上がり、ゆったりとした足取りで籠から外へ出た。
「なぁ鈴音。お前は梅が好きか?」
「梅、ですか?」
梅は好きだけれど、特別好きってわけじゃないし。でも、突然なんでそんなこときくんだろう。
小首を傾げながら鬼の動向を見守る。何かするつもりなのかな?
鬼は水面に近寄り、口にくわえた盃を手にして、その上にもう片方の手で拳を作った。
一体何をしているんだろう。
目を細めて凝視しても、よく見えない。鬼が盃を傾けさせる。すると闇の中に水音が響いた。鬼が何か沼に落としたみたい。
「あの、何しているんですか?」
紅い瞳がちらりと私に向けられる。長い指を少しすぼめた唇の前で立て、ニヤリ笑んでみせる。
その仕草が妙に艶っぽく見えて思わず心臓が鳴る。
唇から指を離し、水面に向けて伸ばす。手のひらを上へ向け、ゆっくりゆっくり、手招きするように上げていった。
暗い水面にいくつもの紅い星々が浮かび上がる。それらが勢い良く水しぶきを上げて、空の紅い月へ伸びた。
沼から生えたそれは鬼の背を越え、ぐんぐん伸び、私がめいっぱい見上げるとこまで背を高めるとやっと止まった。
それを見て私はようやく、それが紅い小さな花を雨のように降らせる梅の木だと分かった。滝のように水面にまで降り注ぐ紅い花が、辺りの不気味な雰囲気をがらり変えて神秘的な空気を漂わせている。
「これ、枝垂れ桜じゃなくて、枝垂れ梅?」
「あぁ。綺麗なやつだろ」
腕組みして得意げに言った。
大きな大きな、雨のように紅い花を散らす梅の木。籠のそばに寄って見上げ、溜息を吐いた。
「すごい、綺麗……」
枝から雫がこぼれ落ち、沼の水面に波紋をつくる。風が木を撫でると、長い枝が女性の髪のように紅く、艶やかに流れた。
その光景にもっと近くで見たい衝動に駆られ、籠の出入り口に手をかける。
こんなにすごい梅の木を見たことがない。桜や藤の花を見て感動したことはあったけれど、梅の花がこんなにすごいなんて! 今、手元にデジカメがあればいいのに!
「あ、あれ?」
白い格子を押すがビクともしない。
押す場所を間違えたかな?
辺りの格子を見比べるが、きちんと出入り口部分を掴んで押している。それに今は鍵なんてついていない。
「なんで開かないの?」
「おい鈴音」
呼ばれて、さっと顔を上げる。
梅の下で紅い目が細くこちらに視線を投げている。
「お前は籠から出るんじゃない」
「せっかく綺麗な梅なのに。もっと近くで見たいです!」
「だ・め・ダ」
「でも」
「コイツを見れただけでも有り難いと思え」
「だからって籠の入り口に呪いをかけるなんて、ひどいじゃないですか!」
わざわざ籠に私を閉じ込める術をかける程、鬼は外に出したくないの? 本当に一生、ここから一歩も出さないつもりなの? 何にしたってひどい! まさかお風呂も籠ごと移動するの? そんなことしたら畳が傷むじゃない!
「ん? 籠に呪いなんぞかけてないが?」
え?
罵る言葉を考えていた頭が、ピタリと止まる。
呪いをかけていない?
嫌な予感を覚え、そろり、足下を見やる。
暗がりな足下の格子に、小鬼とは違う緑の塗れた手が、がしりと出入り口部分を掴んでいた。
その手元をたどり、沼から伸びた苔色の腕に目を向ける。
よせばいいのに理性に反して沼に視線を移すと、そこに広がる無数の小さな黄色い目がなんどか瞬きした。そしてそれらとバッチリ目が合った私は、あっと言う間に失神したのだった。