第十三怪 紺碧を飲む
視界いっぱいに埋め尽くされていた黒い星がようやく取り除かれてきたようで、視界中央に薄暗い木の天井が映る。多少ぼやけてはいるが、まったく見えないワケではない状態まで、なんとか視力が回復してきたみたいだ。
起き上がろうと身体に力を入れる。しかし金縛りにあったみたいに指先すら動かない。鈍い感覚の中、目を足元へ向けると、自分が呼吸するたびに布団が上下しているのが見える。
ここはどこだろう。
出来る範囲内で辺りを見回す。
だだっ広い畳の間に、見たことのない虎の襖に鷹の掛け軸。他には何もなく、殺風景だ。どうやら籠の中ではない、どこか別の部屋で寝かされているようだ。
「生きてる……」
私はどこか他人事のように呟いた。
頭がぼうっとして少し胸が苦しく感じるが、あんな目に遭ったのにも関わらず、こうして穏やかに息をしているのが信じられなかった。
見たわけではないのに空想上の化け物が自分に喰らいついている姿を浮かべてぶるっと震える。
私は何で襲われたんだろう? 何に襲われたんだろう?
鬼にばかり恐怖していたが、他の何かに襲われるだなんて、まったく思ってもいなかった。
すぐそばの襖が開かれる音がする。微かに動く頭を音のしたほうへずらすと、紅い筋肉質な足が見えた。大股で近付き、鬼が私を覗き込んできた。
「おぉ、だいぶ良くなったみたいダナ」
鬼はドカッとその場に腰を下ろすと、あぐらをかいた。
相変わらず口には笑みを浮かべている。
何度か目を瞬たいて、鬼の顔を見る。
深紅の瞳は穏やかで赤銅色に走る朱の模様が今は波紋のように見える。
しばらく見詰めても恐怖を感じない。放心したみたいに心が何に対しても反応しないようで、なんだか胸が空っぽになったみたいだ。
鬼の大きな紅い手が額に触れる。
いつも熱いと感じていた手の平は今ではほんのりと暖かい。
「少しばかり熱があるようだナ。鬼火の後遺症だろう。じきに良くなる」
「……鬼火?」
「お前に仕込んだ俺の鬼火ダ」
「仕、込んだ?」
何のことだろうと動くはずも無い首をかしげる。
あぁ、だけれど、思い当たることが一つある。……思い出したくもないけれど。
鬼と籠の自由をかけた勝負をしたときに、唇の裏を鬼に噛まれていた。おそらくその時に仕込まれたんだ。
実際何かに襲われていたとき、そこが熱くなって私を襲っていた何かが、悲鳴を上げていた。そっか、あれは鬼火だったんだ。
「私は……どうなったの?何かに襲われたの?」
「あぁ」
「誰に襲われたの?」
「ん~、目星はついたカナ」
私は目を閉じて、なんとなく目を覚ました時から抱いていた考えを口にするかどうか迷った。金魚のように口を何度か開け閉めした後、おもむろに目を開けて鬼に視線を戻した。
「あの、もしかして、こうなる事が分かっていたの? 分かっていたから、だから鬼火を私に与えたの?」
鬼はひたりと私を揺れる紅で見つめ、黙った。
そして一息ついて「そうだ」と頷いた。
両目で鬼の表情を探るように見詰める。相変わらず笑ってはいるがその表情はどこか白々しい。
別に鬼に何かを期待していたわけではないが、ひどくつらい感情が沸き起こった。
なんというか、喉の奥が詰まって、そこからドクドク心臓の鼓動が直接鳴り響いているような……胸がちぎれるような苦しい感じ。
今まで鬼のせいで散々ひどい目に遭って来たけれど、こんなふうに仕組まれて危うく殺されかけるだなんて思ってもみなかったし、ここまでこんなひどい仕打ちを受けるだなんてやっぱり思ってなかった。
やっぱりここは物の怪の世界で、鬼は鬼なんだ。
「鈴音。そう泣くな」
鬼が私の目元をなぞり、離れた爪が濡れているのを見て、自分が泣いているのを初めて知った。
それを呆然と眺めている私を爪を舐めて鬼は笑った。
「人間は弱いナァ~。命を落としたわけでも手足をもがれたわけでもないのに、メソメソ泣くのか。忙しいヤツ」
嘲笑の声に感傷的なもやもやしたものが少し引っ込む。多少ムッとしたので、首を鬼のいない方へ思い切り向けようかと思ったが、生憎まだ体の自由が利かないので目だけを動かす。
言い返さないのかと目には映らないところから声が聞こえたけれど無視した。
「まぁ、完治するまで大人しくしてれば良い。しばらくはここを使え。籠の部屋は血と毒で汚れて使い物にならんからナァ」
鬼の言葉に籠の光景が容易に想像できてゾッとした。
鼻につく血の香りと異臭がまた匂ってきた気がして軽く吐き気を覚える。
嫌なことを思い出させないでと呻いた私に鬼はまたしても笑うだけだった。
「そうだ鈴音。この薬を飲め」
よれた着物の裾から何かを掴み、私の目の前に差し出した。
突然視界に現れた鬼の手にぎょっとしつつも、鋭い爪先でつままれた何かを凝視しする。晴天の空のような色をした丸い粒が三つ、宝石のように煌いていた。
「これを飲めば体に残る毒気が完全に消える。飲め」
「まだ体に毒が残っているの?」
「蜘蛛の毒はしつこいからナァ。鬼の俺でも吸いきれなんだ。さぁ、い~ぃ子だからお飲み」
「私、蜘蛛に襲われたの?」
あぁうるさいと言わんばかりに、物の怪の割には整った眉を寄せると、私の口の中に粒を素早く押し込んできた。
「ガタガタ言ってないでさっさと飲め」
まだ二回しか質問してない! と抗議の声を上げようとするが、鬼の太い指が猿ぐつわと同じ効果を発揮していて、むぐむぐという変な音しか口から出てこない。
何度かむせて、ようやく小さな粒を飲み込んだ。
鬼が指を突っ込まなければもっと簡単に飲み込めたのではないかと思ったが、妙にぐったりとしてしまい言うのをやめた。
くぁっと大きな紅い口が開き、気の抜けた声が漏れたの耳にしてそこに視線をなげる。
「さぁて、俺はそろそろ行こうかね」
片膝を立てておもむろに立ち上がり、うんと伸びをすると、紅い体から小気味よいポキポキという音が鳴った。そして首をぐるりと回しながら鬼は言った。
「休んでいる間は暇だろうから、子鬼を遣わしてやろう。
それで退屈しのぎでもしてれば良い。用件もそれに言え」
大またで歩き、襖をいつものように足で開ける。
行儀が悪いなぁと顔をしかめる私に、何か思い出したようで肩越しに細めた紅を私へ投げると
「あぁ、そうそう。
お前サン、外に出たいだなんて言っていたが、外にはお前を襲ったような奴等がウヨウヨいるゾ?
これを良い機会に考えを改めたほうが良いカナ」
「え?」
素直にうなずきかけるが、何かひっかかりを覚えて止める。
今聞いた言葉を何度も頭の中で繰り返し、ある考えが浮かんだと同時に自分の顔が青ざめた。
「まさか……だから?」
「さぁ~ナァ~」
曖昧な返事でじゃあなと紅い手がヒラリと舞い、妖しい紅を最後に襖の向こうに消えいく。
私が外に出たいなんて言ったから、襲われるのを知っていて黙っていたって事?
外に出たいだなんて二度と思わないように?
たったそれだけの為に?
私は鬼が去った後も
馬鹿みたいに口を開けて呆然とするしかなかった。