第十二怪 見えた櫨染(はじぞめ)
紅い鬼が出て行った後、灯篭の灯が小さくなる。
うっすらと物の輪郭が見えるくらいの明るさの中、浴衣に着替えて布団を敷く。梅が小さく咲き誇る敷布団に身体を横たえ、ふぅと息を吐いた。
さっきまで怯えを忘れて、鬼と話をしていたのが嘘のようだ。なんだか不思議な、もやもやとした物が先ほどから胸の辺りで燻ぶっている。
結局籠の出入りも自由にならなかった上に、鬼に口付けされた。しかも初めてのを、だ。
思い出すと腹立たしくなって意味がないのに手で口を何度も拭い、それでも何か足りなくて布団にパンチを繰り出す。掛け布団はボフッと殴られたところをへこませる。
まったく! 等と言って、目を閉じて頭まですっぽり布団をかぶると、またふぅと息を吐いた。
……この世界に居続けるのなら、積極的に鬼と仲良くすべきなのかな。気まぐれな鬼だからいつ機嫌が悪くなるか分からないし、殺されてしまうより、喰われてしまうより、息が詰まる事を良しとして、鬼の顔色をみて従順に大人しくしているべきなんだろうか。
今回だって、鬼の機嫌が悪ければ弄り殺されていたかもしれないのに。
今思えばよくあんな口がきけたものだ。
それにしても静か……。
いつもだったら子鬼達の鳴き声や話し声が聞こえてくるのに。
そう、いつもなら布団に入りしばらくすると、喧騒が消えて、子鬼達の鳴き声に紛れてひそひそ話しが聞こえてくるのだが今は何の音も聞こえない。
なんだか寝苦しくて寝返りを打つ。いやに落ち着かない。
体は疲れているのに、頭が妙に冴えている。
嫌な感じだなと思ったその時、なんだかカサカサという微かな音が耳に入った。
天井から、籠の向こうの畳から、何かが這うような音が小さく聞こえた。聞き間違えかと思い耳をそばだてる。
……
ううん、聞き間違えなんかじゃ無い。
やっぱり何かいる!しかも複数だ!
身の危険を感じて上体を起こそうと、頭から被った布団をどけた時だった。いきなり粘着質のある何かが目を覆うようにかぶさって来た。
反射的に目を閉じたのでその何かが直接目に触れることは無かったが、突然のことに頭が混乱し、手足をバタバタさせる。
叫び声を上げようとしたが、喉元に先の尖った物を突きつけられた感覚を覚え、慌てて口を閉じる。気がつけば身体のあちこちにも、同じ感覚があった。
微かに動いただけでも鋭い何かが肌に食い込む。
身動きが取れない!
やだ……どうしよう!
だ、誰なんだろう? 何をしようとしてるんだろう!?
小さく震えていると、籠に何かがぶつかる音がする。
その音に合わせて体を押さえている尖った物も動いている。
何者かが籠の外から私を刃物で押さえつけているんだろうか。 だとしても、なんの為に?
体を横向きにされる。そして刃物が首の後ろに入り込むと、グイッと覗き込むように襟を引っ張る。次に胸元を開けられ、両袖もまくり上げ、裾も上げられる。
今は恥ずかしさよりも恐怖のほうが上まわり歯がガチガチ鳴った。
一体何がしたいんだろう。もしかして何かを探しているんだろうか。
気がつくと、さっき聞いた這うような音が次第に近くなり、自分を囲むように四方から聞こえてくる。時折、その音に混じって『ギチギチ』という歯軋りするような音が聞こえてくる。
「痛っ――!!」
何かが一斉に私の体に噛み付いた。全身に激痛が走る。思わず叫び声を上げたが喉に刃が食い込んで声を詰まらせた。
呼吸が乱れ、息も絶え絶えになり、激しく胸を上下させている 間にも痛みと共に何かをすする様な音が聞こえてくる。
なんとか逃れられないかと体を捻ろうとすると、噛まれた所から痺れと這うような痛みが広がってきた。それが全身に蔓延すると、自分の口から声にならない悲鳴が上がる。
体が、頭が痛い! 胸が苦しい! 吐き気がする!
痛みに耐え切れなくなり、声を上げようとすれば刃が喉に食い込み、噛み付く何かを振り払おうと身動きすれば、全身に刃が突き立てられる。まさに地獄の往復だった。私はひたすら悶え続けた。
一体どれくらい経ったんだろうか。
私は精も根も尽き果て、痛みを感じても指一つ動かせなくなっていた。口からは『うぅ』という呻き声しか出てこない。
顔の表面を刃が撫でると視界を遮っていた物を剥ぎ取った。重いまぶたを上げるが、見えた景色は既に霞んでいた。黒い星が散りばめられ薄暗い部屋がより一層暗く見える。
その霞んだ視界の半分を占領している大きな二つの丸いものが見える。くすんだ黄色い玉が二つ、闇の中からこちらを睨んでいる。
でもすぐにその光景も黒い星で埋め尽くされていく。
もう、何も見えない。私は死ぬんだ。
あっけなく訳も分からないまま死んでいくんだ。
いつしか身体中の力が抜け、唇まで痺れ、最後には呼吸も止まってしまった。
辺りに残るのは私をむさぼる音だけだった。
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闇の中に横たわる身体。
肌はどす黒い紫で覆われ、半分開いている目は何も見てはいない。これならあと少しもすれば死に至るだろう。
もう死んだも同然。
噂通りなら、これで紅い鬼も動くだろう。
そしたらあの目障りな奴らを殲滅してくれるに違いない。
長年の夢もこれで叶いそうだ。
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もう遠くなった耳に何か大きなものが天井へと消えていく音が聞こえる。
残るのは死を目前にした私と、それをむさぼる何か達。
目には何も映らないし、もう痛みも感じない。耳もほとんど聞こえない。
死ぬってこういう感じだったんだ。
色々やりたい事はあったけれど仕方がない。
両親には悪いけれど、友達を救えて死ぬのなら……
……
…………
でも私が死んだら契約は無効になっちゃうのかな。
そしたら友達みんな連れ戻されちゃうのかな。
意地悪な鬼だから何を思いつくか分からないし。
しかも最初で最後のキスが鬼なんて嫌だ。
最後ぐらい大好きな人としたい。
というより、せめて人間が良いっ!
こんな所で死ぬなんて冗談じゃないっ!
自分の中で何かがはじけ、ギリッと歯を食いしばった。すると口の中がほんのり熱くなっているのに気がつく。痺れる舌で熱い部分を舐めてみる。どうやら唇の裏から熱が出ているらしい。次第に熱くなってくる。
熱が口いっぱいに広がると、それが喉を通り四肢に流れ、やがて体中に広がり、ボッと発火する音がしたかと思うと、女性のような悲鳴がいくつも重なって部屋中に響いた。
布団や畳の上に小さな影がいくつも転げ回る。
突然、襖が蹴破られた。耳に入ってきたのは複数の子鬼の鳴き声。
雄たけびを上げながら子鬼達が次から次へと部屋に入り、棒のようなもので影を叩き始めるのが聞こえる。
「派手にやられたナァ」
少し前に聞いたばかりの紅い声。
騒音の中、静かな音が異様に耳に響く。
ゆっくりゆっくり近づいてくる足音。
「可哀相になぁ、鈴音ぇ」
足音が耳元で止まると、無骨な手の甲で頬を撫でられる。
目を見開くが何も見えない。
今のは私には肌の微かな感覚と耳から入る音だけが、今の状況を教えてくれるみたいだ。大木のような硬くてがっしりとした鬼の腕が膝の裏と肩に回ると、一気に浮上した感覚を覚える。下の方から子鬼達が雄たけびを上げ、何かが悲鳴をあげる音が聞こえる。
「お前さんたち、ほどほどにしとけヨ。後片付けは任せたからな」
鬼の声に子鬼の威勢のいい返事が返ってくる。
その鳴き声にはどこか嬉々とした物が混じっているかのように聞こえた。