第十怪 紅と交渉
「はー……何をしてるんだろぅ。私」
薄暗い個室の壁にもたれかかりながら、ため息を盛大に吐く。
すごく疲れた。その割には何の成果もないのだから更にぐったりする。
緊張に耐えられなくなり咄嗟に出た言葉だったけれど、とりあえず怒らせなくて良かった。本当に良かった。
深呼吸を繰り返しているうちに気がつく。
そのまま『外に出たい』なんて言ってもあの紅い鬼のこと。すんなり出してはくれないんじゃないだろうか。ん~、だけれど他に案なんて浮かばないし……。
仮に『足が弱っているから』と説明を付け加えて話したらどうなるのだろう。考えられる反応を思い浮かべる。
考えられる可能性その一。『なるほど。それもそうだナ』と、案外あっさり承諾する。
これは楽観的過ぎると思う。まずなさそう。
その二。『知らないカナ』と、放置。
これはあり得る。食事まで忘れるくらい興味がない時があるみたいだし案外これが一番可能性が高いんじゃないかな。
その三。『ぶわかめぇ!それなら喰ってやるまでダァ!』
……
……
特にいう事はないし、言いたくない。想像したくもないっ!
扉が激しく叩かれる音に我にかえる。
子鬼が『まだか』と催促しているみたいだ。
慌てて扉を開けると、行灯を持っている子鬼がきぃきぃと文句を言う。手に持った行灯が揺れて光が踊る。
「ごめんなさい」と頭を下げると子鬼は鼻をふんと鳴らし歩き出した。
暗い長い廊下を子鬼と進む。子鬼が足元を照らしてくれているおかげで、暗くても何とか歩ける。行灯を持っていなければきっと真っ暗闇になるんだろうな。この廊下を何度も通ったが辺りを見回してもやはり窓らしいものは一つもない。
故に光がどこからも入らず、時折見かける鬼火と子鬼が持つ行灯以外、廊下を照らすものはなかった。窓がないのは屋敷の中心部だからなのだろうか。
お酌をしている部屋も時代劇に出てくるお城みたいに外を見渡せる部分があっても良さそうなのだけれど、生憎雨戸のような分厚い板が並んでいるだけで外は見えない。
私は籠に入れられてから一度しか外を見ていなかった。ここに残ると決めてから間もなく通された露天風呂。漆黒の空にあの線香花火のようなぼんやりとした赤い月。綺麗に整った和庭園。あの光景には恐怖すら忘れた。
ちなみにあれ以降、お風呂はというと二畳ほどの狭い石畳の部屋に連れて行かれ、そこでお湯の入った大き目の桶と手拭いを渡され、それで身体を洗えといわれたのだった。文句を言うわけにもいかず、それでずっと身体を洗っていた。
「あっ」
露天風呂という言葉を思い出して、ある案が頭に浮かんだ。
あの露天風呂からみえた庭園を褒めたおして『もう一度見たい』とお願いしてみよう。そう、ずばり『ほめ殺し』だ。
大変単純な作戦だけれど、昔祖母に聞いた話では、鬼は虚栄心が強いらしい。それを利用すればうまくいくかもしれない。
昔話だってこれに似たような話でうまくいった例は幾つかあるわけだし。
よし、そうと決まれば! と拳を作り、見えてきた金色の襖に顔を向け、一人奮い立った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「先ほどは失礼しました」と、手をついて頭を下げる。それを紅い手がひらりと応えると手招きした。
鬼の反応に安堵しつつも、私は内心緊張しながらスッと鬼の隣に座り酒瓶を手に取った。
いつ、どうやって話をしようか。なんの脈絡が無いままいきなり褒めだしたらおかしいし……。
頭の中でごちゃごちゃ考えていると、鬼の大きな手が酒瓶を持っている手を瓶ごと掴んできた。驚いて後ろにのけぞるが、肩に腕を回され阻まれる。
「酒はもういいカナ」
酒瓶がするりと手から離れる。
紅い手が瓶を脇に置くと、空中を小さくなぎ払った。
何が起こるんだろうと部屋を不安げに見渡した。すると部屋がだんだん薄暗くなり、部屋の向こう側がハッキリと見えないぐらい明るさが落ちた。薄暗い部屋の中ではっきり見えるのは対の妖しい紅のみ。
「鈴音。お前さん、さっきは違う話をしようとしていたんじゃナイカ?」
何の前触れも無くかけられた言葉にぎくりとする。
急激に上がる心拍数。そんな自分に落ち着けと言い聞かせ、首を振る。
「いえ、そんなことないです。全然、そんな」
「そぉかー。いや、美味い酒を飲んで気分がいいもんだから、せっかく聞いてやろうかと思ったんだがナァ~。いやいや、そりゃ残念だ」
言葉をさえぎり鬼がふぅーっと息を吐く。心なしか鬼の吐いた息が煙草の紫煙にも見える。
鬼の言葉に一瞬思考が止まり、頭の中が真っ白になった。見え透いた鬼の態度にも関わらず、何故か私は慌てて口を開いてしまった。
「あ、あの、ただ、外に出たくて」
「なんだ、やっぱり違うじゃないカ」
またもやさえぎられた言葉にぐっと声を詰まらせる。それをニヤリと見て笑う鬼。今度もまたぷぅーっと勢い良く息を吐く。
馬鹿だ。本当に私は馬鹿だ。
自分の単純さ……というか馬鹿さを呪い、ギリリと奥歯をかみ締める。
「ほぉ、そうか。外にでたいカ」
肩を抱く腕に力が入り、鬼のほうに身体を寄せられる。
鼻に癖のある香りがまとわりつく。何か吸っているんだろうか。激しく鼓動する心臓を鬼に気づかれまいと、鬼と自分の間に腕を入れる。
「な~んで外に出たい? 何か気になる事でもあるのカナ?」
「あ、いえ。ただ籠の中にいてばかりでは、足が弱ったり」
「足が弱ってるのカ?」
きょろっと紅い目が面白そうに私を眺めるのを見て、慌てて言葉を付け足す。
「い、息も詰まるんです。何もすることがないので。だから、ほんの少しでいいから外を歩きたいんです。外がダメならお屋敷の中でも構わないです」
早口で訴え、鬼の返事を待った。
鬼は向こうの闇を見つめてしばし考えると、両の口端をにぃっとつり上げた。それを見て背中に寒気を覚えた。ぶるっと身震いする。
「そうだなぁ~。聞いてやれないこともないが、ただ聞いてやるのも詰まらんナァ」
そう言って私の耳元に顔を寄せてくると、ひっそりと声を潜めて囁いた。
「どうだ? これから少しの間、お前サンが身動き一つしなかったら籠の出入りを自由にしてやるというのは?」
だらしなく開けている懐に手を突っ込み、いつか見た青い砂時計を取り出すと、くるりと空中で一回転させる。
『少しの間動くな』って?
いかにも怪しい。むしろ怪しさしか感じない。さすがの私もこの条件に眉を寄せた。
「あの、『少しの間』というのはどれくらいですか?」
「ん~」と少し唸り「茶を一杯飲むくらいだな、大体。別に無理強いはしないゾ?やりたくないなら、それはそれで構わんヨ」
今度は『お茶を一杯飲むくらい』だって? はっきり何分とか何秒とか言ってくれないの?
その事を聞こうとしたが、鬼はそっぽを向いて『返事はマダか』という雰囲気を作っている。まだ一つしか質問していないのに。
どうしようかと悩んだ挙句、この疑問に対する答えで決めることにした。
「私がじっとしている間、何をするんですか?痛い目に遭わせるんですか?」
「また質問か。まぁ、手は上げないカナ。そんな色気のないことはシナイ。もう問いには答えんゾ」
とりあえず乱暴されることはないみたい。それでも不安が完全に払拭されたわけではないのだけれど。
紫煙の息を思い切り吐くと鬼が私を見下ろした。
「どうする? してみるか? それともしないか?」
「……し、しますっ!」
考えてたって仕方がない!せっかくのチャンスだもの。
奮い立ち、挑むように鬼を見上げる。そこにはどこか満足げな紅い鬼の顔があった。