ごめんねの代わりに
「ねえー、まだ掃除終わんないの?橘ァ」
「あ、ご、ごめ、あと、少し」
「早くしろよー。俺らも暇じゃねえんだからさー」
あれから二週間が経って、今は音楽室の掃除担当。
他の四人は相変わらず掃除はしてくれなくて。
私一人でやっている状況。
文句も言えずに、私はせっせと箒を持つ手を動かした。
少し前と変わらない日常。
これが私の日常。
佐伯くんとは、今では全く話さない。
すれ違っても挨拶なんてしない。
当然のように目を合わせない。
もしかすると、あの眩しかった日々は夢だったんじゃないかって。
眩しくて眩しくて寂しい、いつか見たあの夢の一部だったんじゃないかって。
そんな風に思ってしまうくらい、私と佐伯くんの間にはもう何もなかった。
「お、あとごみ捨てだけじゃん。」
「ごみ捨てもよろしくねー橘。」
「あ、う、うん」
四人は箒をロッカーに乱暴に入れると、ぞろぞろと話しながら出て行ってしまった。
私は隅においてあるゴミ箱の中身を、青いゴミ袋へと移す。
もともと特別教室だからか、そんなに量は多くなくて、ゴミ袋は口を縛ったあとも、空気でほんの少し膨らんでいるだけだった。
窓を閉めて、ブラインドを上げて、部屋の電気を消して。
鞄とゴミ袋を持つと、音楽室を出てごみ焼却炉へと向かった。
放課後で、部活動などがあるからか、廊下にはまだちらほらと人が残っている。
「これから遊びに行こう」とか「今日うちに遊びに来いよ」とか、楽しそうな話声が聞こえてくる。
私はなんだか寂しくなって、早く帰ろうと足を速めた。
一階分階段を降りて、西側から東側へとうつる廊下を歩く。
ぺたぺたぺた。
はやく。
はやく。
そのときだった。
「えー、いいじゃん秀介ぇー」
少し高めの声。
秀介という名前に反応する。
佐伯くんの下の名前。
「最近一人で帰ってるじゃーん。一緒にカラオケ行こうよー」
そっと顔を上げると、そこにはやっぱり佐伯くんが歩いていて。
横には、お洒落で可愛い女の子。
絡まる腕。
近い身体。
私は思わず立ち止まってしまった。
「んーだから・・・」
相変わらず優しい佐伯くんの声。
困ったように笑っている。
ぼおっと見ていると、佐伯くんが顔をこちらに向けて。
視線が、合った。
お互い、この時は、何故か目を逸らさなかった。
それはほんの五秒、ううん一秒くらいだったのかもしれないけれど。
私にはとても長く感じられて。
「さ、さえ、きく・・・」
私は思わず佐伯くんの名前を呼んでしまった。
そんなに離れていない距離だったから、絶対に聞かれてしまったのに。
佐伯くんには、絶対に聞こえていたはずなのに。
彼は、ふいと目を逸らすと、
「いいぜ、行こう、カラオケ。二人で」
そう笑って、女の子と一緒に私の横を通り過ぎていった。
『橘、おはよ』
いつかの、佐伯くんの笑顔が頭の中を過ぎる。
私に向けられたそれは、ひどく明るくて。
今は、とても辛い。
これは、自分が望んだことだから。
佐伯くんを避けたのは私。
好きになっちゃいけないのも私。
だから、私には泣く資格なんてない。
こうなることは、わかっていたことなんだから。
これが、私の日常なんだから。
あと少し時間が経てば、全てが元に戻る。
私も。
私の気持ちも。
ゴミ袋が、ぱさりと手から落ちて。
私はふとゴミを捨てに行かなきゃと思い出した。
焼却炉はグラウンドの隅にあって、サッカー部や野球部が声をあげて走り回っているのを見ながら、のろのろと歩いた。
砂埃が舞って、遠くがかすかに茶色く霞んで見える。
小さな焼却炉の周りは石で作られた塀で囲まれていて、その焼却炉テリトリーには数個のゴミ袋が置かれていた。
適当なところにポスンと持っていたゴミ袋を置いて、そこを出ようとしたときだった。
私は思わず足を止めた。
見覚えのある小さな包みが目の端に入ったから。
焼却炉を囲む塀のすぐ傍にぽつんと置かれたそれは、とても可愛らしいラッピングがされている。
それは小さくて、たぶん燃やすときにも忘れられているような、そんなちっぽけな存在のようだった。
だけど、私は忘れることなんてできない。
そっと、包みを開ける。
四葉のクローバーとリスが、ゆらりと揺れた。
どうして、これがここにあるの?
どうして、捨てられているの?
どうして、
どうして・・・?
あ、もしかして。
私が、選んだから・・・?
私が選んだものだから・・・?
やっぱり、私なんかが、
「・・・何やってんの。」
いきなり声をかけられて、私は反射的に振り返った。
「あ・・・」
そこには、佐伯くんが立っていて。
カラオケは・・・とか思ったけれど、やっぱり口にはできなかった。
「それ・・・なんで橘がもってんの・・・」
私が手にしていたネックレスを見ると、佐伯くんはくしゃりと顔を歪めた。
「こ、これ、は・・・」
「返せよ。それはもう捨てたんだ。」
「で、でも、」
「返せって・・・」
佐伯くんの手が伸びてきて、
「や、やだ!!」
私は思わず大きな声を上げてしまった。
「は。なんなんだよ。」
「わ、私が、選んだ、から、あ、あげられ、なかったんだよ、ね。」
「・・・なにいってんの」
不機嫌な佐伯くんの声に、思わず負けてしまいそうになったけれど、私は続けた。
「す、捨てちゃうなら、ちょうだい!これ。」
私は顔をがばりとあげて佐伯くんを見た。
少し驚いたような顔をした後、再び佐伯くんの眉間には深い皺ができた。
「あ、お、お金なら、払う、から、だから・・・」
「・・・金払うなら、自分で同じの買いに行けばいいじゃん」
「え・・・」
たしかに、そうだよね。
でも、
忘れたくないから。
「い、いやだ。私は、これが、欲しいの。」
佐伯くんと交わした会話とか。
駅前で二人で笑ったこととか。
掃除のときに助けてくれたこととか。
一緒に出かけたこととか。
全部
全部
すごく嬉しくて、幸せだったから。
ストラップも。
このネックレスも。
私には、何よりも大切な思い出だから。
忘れたく、ないから。
「こ、これじゃなきゃ、だ、駄目な、の」
佐伯くんの好きな子にあげるはずだったものでも構わない。
我侭だって、わかっているけど。
佐伯くんを困らせてしまっているのもわかっているけど。
これを、最後にするから。
「お、お願、い、しま、す・・・ご、ごめ・・・なさ・・・」
いつから零れていたのか、頬をぽろぽろと涙が伝って。
目の前がゆれる。
ゆらゆら。
ゆらゆら。
あの時と、
私が佐伯くんに初めて嘘をついたときと同じ。
目の前が。
「なんでそうやって期待させるようなこと言うんだよ!」
唐突に佐伯くんの声が響いた。
「俺のこと避けたのは、橘だろ!なんでそんな思わせぶりなことすんだよ!」
何を、言ってるの?
「さ、えき、く」
思わせぶり?
「ストラップだって・・・外すくらい・・・」
小さな、弱い声。
「俺のこと・・・嫌になったのは、橘じゃないか・・・」
言いながら、佐伯くんはなんだか苦しそうな表情をして。
それを見て、私も苦しくなった。
ああ、私。
佐伯くんにこんな顔させたかったわけじゃないのに。
そのときやっぱり、私は間違っていたのだと思った。
「め、迷惑だって、い、言った・・・」
「は?」
「私が、一緒にいたら、さ、佐伯くんの、価値が下がるって言った!」
「誰がそんなこと言ったんだよ!」
私の言葉に、佐伯くんが険しく声を荒げる。
「そんなわけないだろ!」
それでも私を見る瞳に、怒りなんて含まれていなくて。
「い・・・ヒック・・・一緒に、いても・・・ヒッ・・・い、いいの・・・?」
一緒にいても。
好きでいても。
いいの?
「ずっと思ってた。駅で初めて橘を見かけたときから、どうしてこの子はこんなに悲しそうな表情しかしないんだろうって。」
「駅・・・?」
「同じクラスなのを知って、掃除のとき困ってるの見て、思い切って話しかけて分ったんだ。」
佐伯くんが、静かに微笑んだ。
「自分に自信がないんだって。」
自信。
私に自信なんて。
「だけど話してみたら、確かに話すの下手だけど、優しく笑うとことか見たらさ、俺にとってはすごく魅力的な女の子だったんだよ。」
魅力的?
私が?
「迷惑なヤツに、ストラップやったりしない。」
「迷惑なヤツと、飯食ったりしない。」
「迷惑なヤツを、気にしたりしない!」
胸に響く佐伯くんの言葉。
「俺を、信じてくれよ・・・」
そうだね。
思い出すのは、いつもいつも、
優しい佐伯くんの笑顔と、優しい言葉ばかりだった。
「俺がいないときでも、例えば駅のホームでも笑っていて欲しかった。」
「どうすればいいのか、正しい答えなんて結局わからなかったけど。」
佐伯くんは私の手からそっとネックレスを取ると、それを私の首にかけた。
「うん。似合ってる。」
私の胸元で、クローバーとリスが揺れる。
「本当は、駅で渡したかったんだけど。」
焼却炉の前になっちゃったと、恥ずかしそうに笑う佐伯くんが、なんだかとてもおかしくて。
「お、笑った笑った。」
私は涙をぽろぽろ零しながら、ぐちゃぐちゃな顔で笑った。
「俺は橘のこと、好きなんだけど。橘は、俺のこと、嫌い?」
あんなに酷いことをしたのに、まだ私を好きでいてくれた佐伯くんに、もう何て言ったらいいか分らなくなって。
私が「今までごめんなさい」と謝ると、佐伯くんはクスリと笑って。
「今は『ごめん』じゃなくて」
「好きって言って」と、耳元で囁かれた。
私は可愛くないし、地味だし、明るくもないし、人見知りだし。
そんな私に好かれても、その人は迷惑しちゃうだけだから。
今も、誰かを好きになるのには勇気がいるけど。
貴方が私を想ってくれていることを信じて。
貴方に相応しい、素敵な私になりたい。
『おい、お前らちゃんと掃除しろよ。橘、困ってんじゃん。』
あの時から言うことを聞いてくれなくなった私の心は、
多分これからも、貴方から離れられないと思うから。
☆おわり☆