肩に残る感触
辛い。
明るい日々に慣れてしまっていたから。
貴方の優しさに触れてしまったから。
今は、何をするのも、
辛い。
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一日が過ぎるのって、こんなに長かったっけ。
朝起きて。
学校に行って。授業を受けて。お昼を食べて。また授業を受けて。
あの日から、まだ三日しか経っていないのに。
私はもう、眠ったまま目が覚めなければいいのになんて。そんな馬鹿なことを考えたりしていた。
「綾子、大丈夫?」
一時間目が終わった頃。
声を掛けられて、机に突っ伏していた私は顔をあげた。
「佳、世・・・」
「あんた、大丈夫?顔色悪いよ?」
ごしごしと目を擦る。
眠いわけではないのに、何故か頭がぐわんぐわんして。
「ん・・・大、丈夫。」
心配そうな佳世の顔を見て、私は無理に笑おうとした。
へにゃりと、顔を崩す。
その下手くそな笑顔を見て、さらに佳世は心配そうに眉を寄せた。
「本当に?今日三時間目体育だよ?」
「う、うん。」
「ハンドボール。試合なんだよ?」
「・・・うん」
はあと、佳世のため息。
「本当の本当に大丈夫?」
「だ、大丈夫だってば…」
多分、と心の中で補っておく。
まだあと体育まで一時間あるし。先生には悪いけど、席に座ってゆっくりとしていれば今日一日はなんとか乗り切れると思った。
そう。
席に座ってゆっくりしていれば、の話。
「じゃあ次、橘。もう最後まで読んで。」
現代国語の授業ではよくあることだけど。
どうして今日に限って当たるのだろう。私は自分の運の無さにうんざりしながら、しぶしぶその場に立った。
「よ、よって・・・私たちの社会に、は…こ、コンピューターの、」
「ストップ。橘、そんなんじゃ何言ってるか聞こえない。もう一度はじめから読んで。」
ただでさえ音読は苦手なのに、よりにもよってこんな体調の時になんて。
頭では無理だよと思っていても、先生に言う勇気なんてなくて、もう一度当たった個所の頭に戻る。
「よ、よって、わ、私、たち、の、社会に、は、コン、コンピュータのふ、普及が、」
「橘。お前もっと声出るだろ。」
もともとこの先生から気に入られていないからなのか、それともそんなに私の声が小さすぎるのか。
先生は苛ついたように言いながら、こちらへ歩いてきた。
「ほら、もう一度。」
先生が言う。
私は読む。
止められる。
「橘、いい加減に声だせ。」
先生が言う。
私は読む。
止められる。
「聞こえない。」
もう、いいじゃない。
しんどい。辛い。
私の声が聞こえなくたって、誰も困ったりしない。
私がいなくたって、誰も困ったりしないじゃない。
私なんて・・・。
「お、おい!」
もう一度読もうと口を開いたとき、目の前が回った。
がたがたと、椅子と机が動く大きな音がした。
「大丈夫か!?」
倒れそうになった私を、先生が支えていた。
別に、意識を失うとか、そんなことはないみたいだけど。
「す、すみま、せん」
「橘、お前保健室に行け。顔が真っ青だ。」
先生の言葉に、教室が少しざわついた。
「おい、保健委員、こいつを保健室に連れて行ってやってくれ。」
先生が呼びかける。
一人で大丈夫ですと言おうとしたとき。
「はい。俺が行きます」
と、一人の男子が立ったのが見えた。
こちらに歩いてくる。先生が「頼む」と私を彼に引き渡した。
私は彼に肩を支えられて教室を出ていく。
廊下は静かだった。並んだ他の教室から、先生たちの声が聞こえてくる。
足取りはゆっくりだった。私に合わせてくれていた。
だけど、私は彼のことを見れなかった。
保健室に着くまで、ずっとずっとつま先を見ていた。
彼が、佐伯くんだったから。
*****
保健室に着くと、ベッドは一つしか空いていなかった。
私の顔色を見た先生は、すぐに寝るように言って。
佐伯くんが、私をベッドまで連れて行ってくれた。
ベッドに腰掛ける。
その時、カチャンと音がし、見ると佐伯くんの足元に私の携帯電話が落ちていて。
また前のように何もついていないワインレッド。
羽根は、もうない。
どくどくどく。
心臓が速くなる。
何か言われるかと思った。
「ストラップ捨てたんだ?」とか「あげなきゃよかった」とか。
だけど佐伯くんは。
何も言わずに、それをそっと枕元に置いた。
気付いたはずなのに。
ストラップが外されていることに、絶対気付いているのに。
その時に私の口から漏れた息が、安心からなのか、それとも何か他のものからなのかは分らなかった。
ベッドに潜り込む。
すると、彼はそっと布団をかけ直してくれて。
その全てがまだ優しさに満ち溢れていたのに。
私は目をあわさないようにずっと窓の方ばかり見ていた。
布団が柔らかい。
硬いベッドだけれど、とても柔らかく感じる。
少し冷たい風が、二人の間を通り抜けていく。
「橘。」
佐伯くんがぽそりと私の名前を呼んだ。
ぴくりと肩が揺れる。
「ごめんな。」
風で、カーテンがふわりと膨らむ。
「もう、これきりにするから。」
その言葉に、私は思わず視線を上げた。
そこには、今まで見たことのないような佐伯くんの表情があって。
佐伯くんは、一度目を閉じると、そのままカーテンを揺らしてベッドスペースから出て行った。
スローモーションのようにその光景が映る。
一人になったベッドスペースには、まだ風が静かに流れていて。
保健室の先生が何か話す声がして、その少し後に扉が閉まる音がした。
佐伯くんは出て行った。
保健室から。
私の日常から。
私は、引き止めることなんてできなかった。
これでもう本当に、お終い。
少し開けられた窓から、外の声が聞こえてくる。
体育なのか、とても楽しそうな声。
上体をゆっくりと起こす。目に入ったのは、丁寧に揃えられた私の上靴。
佐伯くんが支えてくれた肩にそっと触れた。
そこは、漫画みたいに熱くもなんともなかったけど。
その感触はまだ微かに残っているようで。
自分でその部分をぐっと掴んだ。
強く強く強く。
「さ、えき・・・くん・・・」
その感触が、消えて欲しくなかった。
「佐伯くん・・・佐伯くん・・・!」
吐息のようにこぼれ出るのは、もう決して呼ぶことのない名前。
彼の手は、いつも暖かくて大きかった。
好きで。
好きで好きで好きで。
諦めると決めたのに。
まだこんなに好きで。
貴方にこの気持ちを伝えることができれば、どんなに幸せなのだろう。
例え貴方の価値が下がってしまうとしても、ずっと貴方の隣にいることができるなら。
佐伯くんに会って、私の心は言うことを聞いてくれなくなった。
こんなに辛い思いをするなんて、思っても見なかった。
だけど。
私は何故か、
佐伯くんを好きにならなければよかったとは、思わなかった。