届かない言葉
朝、学校に行きたくないなんて思ったのは、何ヶ月ぶりだろう。
もたもたと朝食を食べて、もたもたと歯を磨いて、もたもたと家を出た。
学校に行きたくない。
だけど、行かなくちゃいけない。
佐伯くんに、会いたくないのに。
会ったら、また彼の優しさに甘えてしまいそうになる。
挨拶も、しない。
目も、合わさない。
昨日、寝る前に決めたこと。
考えているとき、辛くて涙が止まらなくなって。
なかなか眠ることなんてできなかった。
だから、学校なんて行きたくない。
私が学校に着いたときは、まだあまり人がいなかった。
教室に入って、廊下側の後ろの席について。
鞄の中から一時間目の用意を取り出す。
予習はしてある。あとは授業が始まるのを待つだけ。
ふと、前のほうを見た。
窓際の前から二番目の席。
いつも、佐伯くんが座っているところ。
授業中、誰にもばれない様に、こっそりと佐伯くんを見たりもした。
五時間目の時なんかは、うとうとと頭が上下に揺れていたり。
先生に当てられないように、祈るように下を向いていたり。
HRのときは率先してクラスを纏めようとしたり。
私は、この席から色んな佐伯くんを見た。
佐伯くんは前の席なのに。
毎日後ろの入り口から入ってきてくれて、私に「おはよう」と言ってくれた。
たまに一緒に帰ろうと誘ってくれた。
全部、全部嬉しかった。
佐伯くんが好き。
佐伯くんが好き。
佐伯くんが大好き。
だから、私は今日から関わらない。
佐伯くんに迷惑がかからないように。
私のせいで佐伯くんの価値が下がらないように。
絶対に。
もう、決めたことだから。
教室が、騒がしくなっていく。
朝のSHRが始まるまであと五分をきった。
佳世が入ってきて、おはようと挨拶をかわす。
そのとき、ふと佳世の価値まで下げてしまっているのかと不安になったけれど、今はそのことには目を瞑るようにした。
佐伯くんのことが落ち着いてから、ちゃんと考えるよ。
ごめんね佳世、と心の中で謝った。
そのとき、入り口から聞きなれた声がした。
低くて優しいアルト。
私の身体が、ぐっと硬くなる。
佐伯くんは、今日も後ろの扉から入ってくる。
どくどくどく。
心臓が、速くなる。
どくどくどく。
挨拶は、しない。
どくどくどく。
目も、合わさない。
どくどくどく。
「おはよ、橘。」
ぽん、と肩に手が乗せられる。
更に身体が硬くなったように感じた。
「橘?」
私は、何も言わずに、
そっとその手を退かした。
何も言わない。
ずっと下を向いたまま。
早く。
早く行って。
お願いだから。
早く。
ぎゅっと瞑った目が、少し痛いと感じたとき、佐伯くんが離れていくのが分って。
体中の力が抜けていく。
へにゃへにゃと、机に突っ伏した。
なんだ。
できるじゃん。
私は何故か笑いがこみ上げてきて、それを隠すように唇を強く噛んだ。
痛いなんて、感じなかった。
**********
「唇、切れてるよ。」
十分休み。
あと六時間目を受ければ今日の授業は終わり。
そんなとき、佐伯くんは再び私に話しかけてきてくれた。
かたんと、私の前の席に座る。
「ねえ、橘、聞いてる?」
佐伯くんの声。
聞いてる。
聞いてるよ。
佐伯くんの声は、全部私の耳に入ってくるよ。
唇は、朝強く噛んだのが、なかなか治らなくて。
今も軽く血が滲んでいた。
「・・・・・・。」
私は、下を向いて、何も話さない。
「…昨日から、変だよ。何か悩んでるとか?」
佐伯くんの声が、不安げに揺れる。
「言ってよ、じゃなきゃ分らない。」
そりゃそうだ、なんて心の中で思った。
だけど、言えないんだよ。
だから。
こんなに、私も苦しんでるのに。
「橘。」
「・・・・・・。」
分って欲しい。
だけど、分って欲しくない。
「なあ・・・!」
少しずつ大きくなる、佐伯くんの声。
「・・・・・・。」
全てを話せたら。
貴方は何と言う?
「たちばなっ!」
「・・・・・・。」
きっと貴方はそんなことはないと笑って、私を受け入れてしまう。
それじゃ、駄目なんだよ。
「・・・俺、何かした・・・?」
佐伯くんの声が微かに震える。
「・・・・・・。」
「何かしたなら、謝るから。」
違う。
佐伯くんは何も悪くない。
「・・・俺のこと、嫌になった?」
そんなこと、あるわけない。
私が佐伯くんを嫌いになることなんて、あるわけないじゃない。
「・・・・・・。」
だけどその想いは勿論伝わるはずも無く。
「・・・もう、いいよ。」
その時、佐伯くんがどんな表情をしていたかはわからない。
私はそれからもただ黙って、下を向いて。
机の木目を睨んでいて。
タイムアップを告げるかのように、チャイムが鳴った。
佐伯くんは、私から離れていった。
ゆっくりと顔を上げる。
佐伯くんの席は、起立したクラスメイトたちで見えなかった。
席に座って私は目を閉じる。
ただ、これでよかったのだと、私は何度も自分に言い聞かせた。
**********
「綾子ちゃーん、佳世ちゃんよー」
下の階からお母さんの声が聞こえて、私は「今いないっていって」と答えた。
今は、誰とも会いたくない。
誰とも、会いたくなかったのに。
「この私に居留守使おうだなんて、あんたいつからそんなに偉くなったのよ。」
勢いよく開けられた扉に、私は泣きはらした目を擦りながら顔を上げた。
「で、その腫れた目について話を聞きたいんだけど。」
ベッドに並んで座った佳世は、私の顔を覗き込んで言った。
「・・・。」
「佐伯、だよね?今日佐伯と何か話してたし。放課後も様子が少し変だったから。」
私服に着替えている佳世は、私がまだ制服なのもおかしいしと言った。
もう夜の八時近くだったから。
「わ、わたし・・・」
「うん?」
「佳世・・・ごめんね」
「はい!?」
私は口を開いたら、涙腺まで開いてしまったみたいで、また涙がぼろぼろと出てきて。
唐突な謝罪の言葉と涙に、佳世はハテナマークを飛ばしていた。
「ちょっ、どうしたのよ、綾子」
「わ、私、と、い、いたら・・・ヒック・・・佳世の、か、価値も、下がっ、ちゃうのに・・・ヒック・・・」
「え?」
「ご、ごめ・・・なさ・・・佳世、とは・・・ま、まだ、・・・もう、少、しだ、け・・・一緒・・・いた、い・・・」
涙と鼻水としゃっくりと嗚咽で、私はもうぐちゃぐちゃで。
だけど言わなきゃいけないと思って。
「なに言ってんの?」
まさかそんな一言で片付けられるなんて思っても見なくて。
「あんた馬鹿じゃないの?なによ、価値が下がるって」
いつもと違う佳世の声に顔を上げると、なんだかすごく辛そうな表情をしていて。
「そんなこと言う綾子なんて嫌いよ。」
そう言われて、私は身体が震えた。
佳世は私から目を逸らすと、ベッドから立とうとして。
私は、離れて行ってしまうのが嫌で、咄嗟に佳世の腕にしがみついた。
「い、いやだ!ご、ごめ、なさ、い!や、やだあ!」
もう自分がどうしたいのか分らなくなって。
私はやっぱり一人になるのは怖くて。
「ぅあぁー!!いかな、いでえ!」
佳世の服が汚れるとか、そんなこと気にする余裕もなかった。
私は佳世の腕に抱きついたままわんわん泣いた。
「馬鹿ねえ・・・」
頭がくらくらしても、叫びのような泣き声を止めることはできない。
佳世はもう何も言わずに、そっと私を抱きしめてくれた。
多分、その時
佳世も泣いていたのだと思う。
かすかに鼻を啜る音が、聞こえてきたから。
少し落ち着いて、私は佐伯くんのことを話した。
近藤さんたちに言われたことも、私が過去に言われたことも。
佳世は私の話を聞いてすごく怒っていたけれど、やっぱり佐伯くんとはもう関わらないほうがいいと思うと私は言った。
佳世に叱られて、私のしていることは間違っているのかもしれないと思ったけれど。
佐伯くんの価値が下がってしまうという言葉が、何処か心の奥を雁字搦めにして、離してくれそうになかったのだ。
佳世はまた悲しそうな顔をして、「わかった」とだけ言った。
何かあったらすぐに言ってよ、と、私の頭にぽんと手を乗せた。
その時の感覚が、ふとお弁当を一緒に食べたときの佐伯くんと重なってしまって。
私はまた泣きそうになって、必死に堪えた。
***
佳世が帰ってから、私は携帯電話を取り出した。
開くと、着信が三件あった。
全て佐伯くんからだった。
私は着信履歴を辿る。
二時間おきくらいに掛けられてきていた。
佐伯秀介。
佐伯秀介。
佐伯秀介。
ぽたり。
一つ一つにカーソルを合わせて行き、確認済みにする。
ぽたりぽたりぽたり。
「うっ・・・ううっ・・・」
雫が液晶をぬらしていく。
再び零れだした涙は、止まらなくて。
鼻水もとまらなくて。
ズズズと鼻が音を立てる。
漏れるのは、嗚咽ばかり。
私は携帯を閉じて、ストラップに手を掛けた。
ゆっくりと、外していく。
『よかったら、メアドとか交換しない?』
慎重に。
『これ、よかったらやるよ』
思い出すのは、
『いいから!もらって!』
貴方の優しい笑顔ばかりなのに。
携帯電話から取り外されたそれは、不安げに揺れているようで。
「うっ・・・うっ・・・」
私はその羽根を、そっと宝箱の中に閉まった。
「あ・・・ありが、と・・・あり、がとう・・・」
届くはずもないのに。
「ありがとう・・・!」
私はただひたすら、そう繰り返していた。