旅立ち
ここからは穏やかな場面になります。
あの地獄から、どれほどの月日が流れたのだろうか。
五百年近く、私はただこの家で魔法を研鑽し、孤独と共に生活してきた。
…千歳は超えたかもね。
『はぁ。毎回思いますが、アナタ…ちゃんと使命を覚えてますか?』
一日に一度、決まり文句のように溜息を吐くルーネ
「…うん、分かっている」
窓から見える三人の墓標は、私の結界のおかげで、あの日から一秒も時が経っていないかのように美しい。
神が言っていた「黒い霧」が、この数年、背中が凍るような感覚で大きくなってきた。
普通の人間は気づきもせず、明日が来るのを信じて暮らしているのだろう。
…今週で最後か…。
荒れ狂っていた精神は冷徹な凪へと変わり、私の指先には、一国を灰にするほどの力が宿っている。
神に託された「サムティケン王国の闇」を暴き、そして…私の全てを奪った奴らに、等しい絶望を与えるために。
来週、私はこの家を出る。
◇
アイテムボックスに、淡々と荷物を詰め込んでいく。
フェリクスに誕生日プレゼントとして貰った、花柄のマグカップ。
クララが編んでくれた、少し小さいが今でも着れるぐらいの替えの着替え。
初めてリリーが編んでくれた、少し不格好なマフラー。
そして、五百年前の古い金貨十枚と白金貨一枚が詰まった革袋。
それらを、まるでゴミでも捨てるかのように、ぽい、ぽい、と無造作に放り込んでいく。
『そんなに雑に扱うと、壊れますよ。思い出ごと、粉々にするおつもりですか?』
傍らで毛繕いをしていたルーネが、金色の瞳を細めて私を咎めた。
「壊れたら、直せばいい。そういうために魔法がある」
『ほう。…それで、五百年前は助けられなかったでしょう?』
心臓を、冷たい氷の楔で貫かれたような気がした。
投げ入れようとしたリリーが作ってくれた杖が、指先から滑り落ち、床に虚しい音を立てて転がる。
私は次の言葉を探そうとしたが、喉が固まって動かない。図星だった。
『自分の能力を過信しすぎないことを推奨します。お嬢さん、アナタの「慢心」が、あの日の地獄を招いた。それを忘れたわけではないでしょう?』
ルーネの声はどこまでも静かで、だからこそ、研ぎ澄まされた刃のように私の心を切り刻んだ。
「…っ、分かってる。…気を付けるから」
私は落ちた杖を拾い上げ、今度は壊れ物を扱うような手つきで、そっとマジックボックスの底へ沈めた。
最後の一つを優しくアイテムボックスに入れる。
『それで最後ですね。では、今から出ましょう』
「え…?」
『早く行きますよ』
夕暮れのオレンジ色が、森の影を長く伸ばしている。
予定を早め、半強制的に家を追い出されることになった。
私は三人の墓に、用意しておいたカスミソウを一本ずつ手を向けた。
「じゃぁ、私は冒険に行ってくるよ。…皆は元気で帰りを待っていてね」
独り言だと分かっていた。
けれど。
『うん!気を付けてね、ししょー!』
私はバッと勢いよく振り返る。
聞き間違いなどでは、絶対にない。
確かに今、リリーの声が…あの日のままの、愛おしい声が背中を押してくれた。
「あ…え…?」
私の、血のような深い赤の瞳から大粒の涙が溢れ出し、頬を伝った。
『やれやれ、早く泣き止んでくださいね』
ルーネにも聞こえたのかは分からない。けれど、今日のルーネの声は、いつになく穏やかで、優しかった。
空はあっという間に藍色となり、金色の月が出てきている。
『アナタのせいで、もう夜になってしまったんですが…』
泣き止んだ私に、ルーネは呆れたように告げる。私はバツが悪くなって、思いっきり顔を逸らした。
『はぁ、これ、地図です。フェリクスさんの部屋にありました』
ルーネの影から地図が飛んできて、私は受け取った。
「…これを読み取れと?」
『そうですよ。ワタシは方向感覚という概念を持ち合わせていませんので』
魔法の構築式なら数秒で解ける自信がある。けれど、紙の上に引かれた奇妙な線と記号の羅列は、私にとって禁呪よりも難解だった。
「…一つ言っていい?私も地図は読めないよ」
私の告白に、ルーネは長い溜息を吐き、『…では、迷いながら行きましょう』と皮肉げに笑った。
何時間歩いたのだろうか。魔獣に会っては殺して。迷って、迷って、迷って…。
もう朝日が上がりそうな時刻になっていた。
「もう無理…」
私は、もう動きませんと言うかのように、敷物を引いて座り込んだ。
『…分かりましたよ。早めの朝食にしましょう』
ルーネにそう言われ、私は内心ガッツポーズをする。
アイテムボックスから取り出したのは、昨日作った焼いたクッキー。
―サクッ。
時間を停止した空間から取り出したそれは、まだ熱を帯びていて、バターの香りが鼻腔にくすぐる。
アイテムボックスは時間を停止したとはいえ、生ものや焼き菓子は一週間くらいで腐るので気を付けなければならない。
…何か物足りない。
フェリクスの味に及ばない。ふと昔、私は疑問に思い、聞いてみたことがある。
フェリクスは「愛を込めて作れば、より美味しくなる」と。
…愛。
私は、誰かを愛したことも、愛されたことも無い。
厳格な教育、魔法の訓練、剣術の訓練。そこには「情」はあっても、「愛」は無かった。
私はリリーのことを羨ましかった
無条件に抱きしめられ、頭を撫でられていた。大したことでもないのに、褒められて小さなパーティーを行っていた。家族で賑やかな食事、他愛のない会話ばかり。
私がリリーの年頃の時は一切してくれなかった。
『お嬢さん、早く食べないと魔獣がやってきますよ。アナタの魔力に当てられて、腹を空かした連中がすぐそこまで来ています。』
「…うん、分かってる」
私は最後の一口を飲み込み、立ち上がった。
込み上げてくる感傷を、無理やり胃の底へ押し流す。




