幸せな日々
朝、目が覚めると一瞬、ここがどこか分からなくなっていた。
天井の木目は、王城の豪華な彫刻とは似ても似つかない、素朴で温かい。
「起きたのね」
枕元を見ると、クララが隣で本を読んでいた。
ちらりと見えたそのページは、挿絵が一つも無い、文字が敷き詰められた小説だ。
複雑な術式を解読するのは得意だけど、娯楽のためにあんな面倒なものを読むなんて、私には信じられない。
「それ、小説?」
私は重い瞼を擦りながら、這い出すように体を起こす。
「ええ、そうよ。…あら、髪が凄いことになってるわね」
クララがクスクスと笑う。
王女だった頃なら、即座に侍女達が飛んできて整えてくれるんだけど、今の私にはクララの優しい手しかない。
…こっちの方が心地いい。
「朝食ができているから下に行こう。フェリクスも待っているわ」
部屋から出ると、階下からはお腹を刺激する香ばしいパンの匂いと、何かを煮込む温かい香りが漂ってきていた。
「フェリクスさん、おはよう」
キッチンに向かうと、フェリクスが手際よく料理をしていた。
振り返った彼の瞳からは、昨日ほどの刺すような警戒心は消え、少しだけ柔らかな色が混じっている。
「おはようございます。クララ、リリアーナさん」
私はその手で料理をする様子を、まじまじと観察してしまう。
城に居た頃は、決まった時刻に完璧な料理が運ばれてくるのが当たり前だった。
食材から「料理」に変わっていく過程を見るのは、私にとって魔法の実験よりも新鮮な光景だ。
「さぁ、朝ご飯はできたので一緒に食べましょう」
椅子を引いて勧められる。
私も何かを手伝うべきかと考えたが、すぐに思い直して大人しく座ることにした。
以前、良かれと思って侍女の仕事を手伝おうとした際、侍女頭に「王女様は椅子に座って微笑んでいるのが最高のお手伝いです」と淡々と説教が続いた時があった。
…あれは、魔獣より対処が難しかったな…。
クララが朝ご飯を持ってきてくれて、私の目の前に置いてくれた。
木の皿、木のコップ、木のスプーンにフォーク。
銀器のような冷たさはなく、手に触れる木肌の温もりが伝わってきて、なんだか心が落ち着く。
「昨日も思ったけど、料理が上手だね」
目の前には、王城の頃よりもずっと質素。けれど、どんな豪華な晩餐よりも食欲がそそる朝食だった。
まず目を引くのは、きつね色に焼き上がったフィセル。表面はパリっとしてそうなのに、立ち上がる湯気からは小麦の甘い香りが漂っている。その隣には、控えめに、けれど存在感を放つ黄金のバターが。
そして、メインのオムレツ。
ナイフを入れるのがためらわれるほど、ぷるぷると震えていて、表面のきめ細やかさはまるで魔法の雲のように。
脇を固めるのは、脂がじゅわっと浮き出したベーコン。それに朝日を浴びたばかりのような瑞々しいミニトマトとシャキッとした緑のレタス、そして、湯気が立ち上る具沢山のポトフ。
「ありがとうございます。では、温かいうちにいただきましょう」
フェリクスにそう言われ、私はフィセルを一口大にちぎり、バターをたっぷり塗って口に放り込んだ。
―サクッ、という軽快な音が脳に響く。
外は香ばしく、中は驚くほどもっちりしている。
溶け出したバターの塩気が小麦の旨味をグッと引き立てて、嚙むたびに幸せが広がっていく。
続いて、スプーンでオムレツの端を掬う。中はとろっとした半熟で、口の中は濃厚な卵のコクが優しく溶け込んだ。
豪華な装飾も、複雑なソースの味もしない。けれど、魔法団の遠征中、野宿で食べたゲテモノ料理とは比べ物にならないほど、心に染みる味だ。
「リリアーナさん、お口に合いましたか?」
フェリクスが少しだけ期待を込めたような眼差しで尋ねてくる。
「昨日もだったけど、私が五百年で食べた中でダントツに美味しい!!」
本心からそう言うと、クララとフェリクスは顔を見合わせて、今度は二人で声を上げて笑った。
◇
朝食を食べ終わると、穏やかな空気は一変した。
皿を片付け、改めて食卓を囲み、これからのことを話し合うことにした。
「私は、ここに居てもいいし、出て行ってもいいよ。貴方達の好きにして」
私がそう言うと、クララは意を決したような表情で口を開いた。
「…私達の勝手なお願いだけど。貴女には、ここに残ってほしいの」
何故、と問いかけると意外な答えが返ってきた。
私が、この人達の亡くなった娘——リファーに似ていたからだという。
髪は金髪、瞳はエメラルド。外見的特徴は私と全然違うけれど、食べることと魔法を学ぶことが大好きだった少女。だけど、彼女は数年前に流行り病であっけなく亡くなってしまい、当時は六歳だった。
「…そう。それは、辛いことを思い出させたね。でも、私を身代わりにしていいの?」
「身代わりなんて思っていないわ。ただ、貴女がそこに居てくれるだけで、家が明るくなる気がしたのよ」
クララの真っ直ぐな言葉に私は少し毒気を抜かれる。
五百年生きていて、「実力が欲しい」と言われたことは何千回と言われたことがあるが、「居て欲しい」と純粋に求められたのは、初めてかもしれない。
「いいよ、野宿はもう御免だからね。…それに、あのオムレツがもう食べれないのは、流石の私でも惜しい」
照れ隠しにそう言うと、フェリクスが「腕によりをかけて作りますよ」と、今度は心からの微笑を浮かべた。
◇
クララとフェリクスの家に来て、一年後。
平穏な日々の積み重ねの末、この家に新しい家族が誕生した。
「おぎゃぁ、おぎゃぁ!」
甲高い産声を上げたのは、二人目の娘——リリー。
私の名前、リリアーナから取った名だという。
「赤ちゃんってこんなに小さいんだ…」
寿命が長いエルフにとって、新しい命の誕生は奇跡に近い。一族全体でも数年に一人授かればいい方だと言われるほどだ。
目の前で必死に手足を動かす、壊れそうなほど小さな生命を、私は魔法を忘れて見つめていた。
「クララ、体調はどう?辛くない?」
横たわる彼女の手を握る。まだ顔色は優れていないけど、その表情は慈しみに満ちていた。
私はフェリクスに赤ん坊を任せ、回復魔法と、彼女が少しでも楽に眠れるよう、精神を安定させる魔法をそっと編み上げた。




