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悪夢

 どこまでも続く、底のない闇の中に私は立っていた。

 音もなく、温度もない。ただ虚無だけが広がる、真っ暗な世界。


 唐突に、頭上から一筋の光―トップライトが落ちた。

 円を描く光の輪の中には、一匹の黒猫が佇んでいる。


…ルーネでは…ない。もっと冷たく、形を持たない影のような、別のナニカ。


 黒猫は私を一瞥もせず、闇の中に突如現れた一筋の扉へと歩き出す。その扉には見覚えがあった。

 私は、自分の意志に反してその背中を追っていた。


 扉が、音もなく開く。


 部屋の中に転がっていたのは、変わり果てたリリー、クララ、フェリクスの姿だった。

 鮮血に染まり、二度と動くことのない、私の大切な家族。


「え…、あ、っ…」


 膝が震え、立っていられなくなる。

 叫ぼうとしても、喉に焼けた鉛でも詰まったかのように声が出ない。


 黒猫はそんな私を嘲笑うように、淡々と、けれど呪いのように言葉を紡いだ。


『オマエノセイダ』

『オマエノセイダ』

『オマエノセイダ』

『オマエノセイダ』


 ぐにゃりと黒猫の輪郭が歪み、見覚えのある金髪碧眼の美少女―リリーへと姿を変えた。


「ねぇ、ししょー。ししょーがあの時もっと早くに来てくれたら、私達は死なずに済んだんだよ? 全部、ししょーが悪いんだ。…なのに、今更『復讐』なんて、誰のためのごっこ遊びなの?」


 虫を見るような、底冷えする蔑みを込めたリリーの顔。

 私の心臓が、内側から握り潰されたような嫌な音を立てて跳ねた。


「五百年も眠りこけてたのは知っているよ。でも、それも自業自得じゃない。だって、もう私達を殺した復讐相手なんて、どこにも生きていないんだよ?」


 かつての愛弟子は、その可愛らしい唇を歪め、ゴミでも見るような冷たい目で吐き捨てた。


「自分勝手すぎ。結局、ししょーは自分のプライドを守りたいだけなんだ。私達のことなんて、これっぽっちも思ってないくせに。…ねえ、本当は、私達のことなんてどうでもいいんでしょ?」


…違う!! 違う、そんなこと…!


 叫びたい。喉を引き裂いてでも否定したいのに、声が出ない。

 肺に泥が詰まったみたいに、息を吸うことさえ拒絶されているようだった。


「魔法を勉強したのだって、たった数年でしょ。あとはずっと、悪魔に魂を弄ばれて寝たきりだった。…あはは、最強の魔法師が聞いて呆れる。だっさーい」


 図星だった。

 言い返す言葉なんて、一文字も持ち合わせていない。

 私の世界から色が消え、リリーの嘲笑だけが、頭の中で壊れたレコードのように響き続けた。


「あはははっ…、本当に最低で屑だね。あー、ママもパパもお前のこと大っ嫌いだからこっちに来ないでね。穢れる」


 そう言って、リリーは霧の向こうへと去っていった。


「私は…、私は…、私は…、私は…、私は…、私は…、私は…」


 虚ろな瞳で、意味を失った声を繰り返す。

 

 誰にも大事にされない私。誰にも愛されない私。誰にも必要とされない私。


 千の軍勢を滅ぼす呪文なら知っている。けれど、目の前の大切な一人を引き留めるための、愛されるための言葉なんて、私は一つも教わってこなかった。

 

 人を傷つけ、時に救うはずの「言葉」という名の魔法。

 それを正しく選べていたなら。あの日、あの時、適切な言葉を紡げていたなら…。


 私は…あの子達に、愛されていたのかな。


 答えのない問いが、冷たい泥のように私を飲み込み、意識を闇の底へと引きずり落としていった。


『ねぇ。僕に命を差し出してくれたら、君の望むままにしてあげるよ』


 耳元で響く、とろけるような優しい囁き。

 それは紛れもない、本物の悪魔の誘いだった。


「魔王…だっけ。私、それになるんだったよね」


 感情の死んだ声で問い返すと、悪魔は愛おしそうに私をぎゅっと抱きしめた。


…温かい…。


 血まみれの家族が転がる冷たい闇の中で、その悪魔の体温だけが唯一の救いのように感じられてしまう。


『うん、そうだよ。今の君より、ずっと幸せになれる』


「記憶…消える?」


 悪魔は慈母のような手つきで私の頭を撫でながら、静かに、けれど深く頷いた。


『消したいなら、全部消してあげられる。君を苦しめるその泥のような思い出も、全部なかったことにしてあげよう』


「そっか…。じゃあ、お願―」


 その言葉を断ち切るように、頭の中に鋭い衝撃が走った。


『お嬢さん、起きなさいっ!!』


 鼓膜を突き破るような、ルーネの切迫した命令。

 次の瞬間、悪魔の温もりも悪魔の囁きも霧散し、私の意識は強引に現実へと引き摺り戻された。


「私は…私はっ!」


 バッと跳ね起きた私の視界に飛び込んできたのは、月光が差し込む平和な寝室だった。

 自分が今、何を差し出そうとしたか。どれほど惨めに「逃げよう」としたか。

 それを自覚した途端、心臓の鼓動が激しく打ち付け、情けなさと、言いようのない激しい憤りが込み上げた。


『お嬢さん、落ち着いてください。…もう、大丈夫ですから』


 ルーネの静かな声に促され、私は必死に浅い呼吸を整えようとする。

 けれど、一度決壊した感情は止まらない。


「ルーネ、ごめんなさい…。ごめんなさい、私…あんな…っ」


 逃げようとしたこと。諦めようとしたこと。大切な記憶さえ捨てようとしたこと。

 溢れ出す涙と一緒に、何度も、何度も謝罪の言葉が零れ落ちる。


『お嬢さん、もういいのです。…大丈夫ですよ』


 ルーネが喉を鳴らし、私の頬に優しく顔をすり寄せた。

 今の私には、眩しすぎる大勢の慰めよりも、この一匹の体温だけが何よりも有り難く、居心地が良かった。

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