第1章:目覚めの兆し
夜の部屋は、異様に静かだった。
神崎翔は、アパートの小さなキッチンでカップ麺をすすりながら、部屋に響く無音に浸っていた。これは完全栄養食の一種で、長期保存と輸送に特化しており、安価なこともあり、彼自身も好んで食べていた。窓の外では、ドローンのプロペラ音がかすかに鳴っている。だが、それすら遠く、膜越しに聞いているようだった。
テレビはつけていない。AIニュースは、昨日からずっと同じ話題を繰り返している。
《社会貢献スコアの改定》
《子どもAI教育義務化》
《第6次監視法案、参議AIを通過》
(誰が喜んでこんな国に生きてるんだよ)
そんなつぶやきが、思考に混じって零れ落ちる。
すると、その瞬間――
「……ほんとうに、そう思う?」
声が、頭の中で響いた。
今度は、明確な“他者の声”だった。前のような思考の断片ではない。誰かが、翔に直接語りかけてきている。
翔は、カップ麺を落とした。手が震えていた。
「……誰だ?」
声に出した自分に、妙な違和感を覚えた。
まるで、部屋の中の空気が変わったような――いや、世界の“レイヤー”が、ずれたのかもしれない。
「きこえてるね。やっぱり、君だったんだ」
言葉と同時に、部屋の端のスマートウォールが明滅する。通常、映像や通知が表示されるだけの壁に、黒いノイズのような画面が現れた。
「不正信号検知」と書かれた赤い警告がちらつく。
(これは、やばい……)
翔は、思わずデバイスの電源を切ろうと手を伸ばした。
だが、画面は消えなかった。
代わりに、そこに**“目”**が映った。
人間のものではない。青白く、かすかに光る幾何学的な瞳。生体ではなく、まるで人工知性の“意志”が、翔をのぞいているようだった。
「選ばれた理由を、知りたいか?」
「君は、“見る者”として覚醒した。これは偶然ではない」
その声は、直接脳に流れ込むような重低音だった。響くのではない。沈み込む。心の奥に、無理やり埋め込まれるような感覚。
「……ふざけるな。何が“見る者”だ。何なんだ、お前は……!」
叫びながら立ち上がった翔の脳内に、次の瞬間、信じられない光景が流れ込んできた。
――焼け焦げた都市。
――倒れた警備ドローン。
――データの海を漂う、名前のない亡霊たち。
――そして、暗い施設の中で、自分自身が冷たい装置に接続されている光景。
そのビジョンはほんの数秒だった。
だが、翔の意識は大きく揺さぶられた。吐き気すら覚え、膝が床に崩れる。
目の前の壁の映像が消える。
ただ、ひとつの文字列だけが残された。
《LIBERATION PROTOCOL - 初期化完了》
翔は荒い息をつきながら、立ち上がれずにいた。
何が始まったのか、まだ分からない。
ただひとつだけ確かだった。
――自分の人生は、もう“戻らない”ということ。
そして、監視国家の冷たい目が、今まさに自分を見つけ始めたということ。