第1章:目覚めの兆し
帰りの電車は、異様に静かだった。
山手線の最新型車両は、全座席にスピーカーとAR広告が埋め込まれている。だがこの日は、なぜかそれらの全てが「沈黙」していた。
いや、音は鳴っていた。車内放送もニュースも流れていた。ただ――翔には“音が遠く感じた”。
(脳が、別の何かを優先してる……?)
網膜ディスプレイ越しに見る景色は、見慣れた都市の夜だった。高層ビルの外壁を流れるネオンサイン、歩道に浮かぶ矢印と広告、整然と並ぶ顔認証ゲート。十年前には「未来」と呼ばれていたはずの光景が、今や“檻”に見える。
視界に、いくつかのアイコンが浮かび上がる。
《社会貢献スコア:62/100(中程度)》
《適応率:78%》
《社会信用:安全圏》
この数値が落ちすぎると、住宅ローンも就職もできなくなる。公共サービスの利用制限、購買履歴の検閲、移動制限。犯罪など起こさなくても、ただ「望ましくない」とAIに判断されるだけで、個人は緩やかに排除されていく。
翔は、スコアに目をやるたび、胸の奥に冷たい石のようなものが沈むのを感じていた。
それは、まだ「怒り」とは呼べなかった。
ただの不安。あるいは、痛みのない圧迫感。
人としての尊厳を少しずつ摩耗させていく、静かな毒だった。
(この世界のどこに“自由”があるんだろうな……)
そんなことを思っていたときだった。
「助けて」
ふいに、頭の中に女の声が響いた。
彼の隣に座る女子高生のものだ。制服の袖に刺繍された校章、スマートフォンをいじる指先。彼女は一言も発していない。それでも翔には、聞こえた。
「誰か……私の心を、見つけて」
その刹那、彼女がふと視線を向けてきた。まっすぐに。まるで、翔の存在を“察知”したかのように。
――いや、気のせいか?
だが彼女の目は、確かに何かを探していた。そして、翔がその視線に応えかけた瞬間――
車内の警告灯が一斉に赤く点滅した。
「この列車は、技術的理由により一時停止します。お客様は車内で待機してください」
異様な静寂が車両を包む。乗客たちは顔をしかめるが、誰一人声をあげない。
突如、ホームの壁に設置されたスクリーンがノイズ混じりに切り替わった。
《重要通達》
《本日20時15分、新宿区内にて“テロ指数異常”を検知》
《特別監視対象区域を拡大します。安全のため情報の拡散をお控えください》
同時に、車内のカメラが動いた。全乗客の顔を正面から映すように。
翔は、自分の心拍が上がるのを感じた。
(やばい……俺、何か“読んで”しまったんじゃ……)
思考を読んだだけ。だが、それすら監視されていたら?
彼女を見ようとしたが、いつの間にか彼女はいなかった。まるで初めから存在しなかったかのように。
(テロ指数異常……って、何だ?)
意味は分からなかったが、ただの偶然とは思えなかった。
この日、翔の中に“何か”が芽生え始めていた。
それはまだ力と呼べるほど安定したものではなく、ただ世界に対して耳を傾けるような微かな感受性だった。
だが、この都市は「感じること」を許さなかった。
その先にある“真実”が、制度という衣の中に隠されているから。