第1章:目覚めの兆し
目が覚めると、天井がいつもより遠くに感じられた。
神崎翔は、寝返りを打つと、重い身体を引きずるようにしてベッドから起き上がった。スマートミラーが自動で電源を入れ、彼の生体情報をスキャンする。
「神崎翔さん。体温36.9度。心拍数通常。ストレスレベル、やや高め。昨日の就寝時間は午前2時14分。推奨睡眠時間を1時間57分下回っています」
鏡の中の自分は、冴えない顔をしていた。やや伸びた髪、くたびれたTシャツ、深く刻まれた目の下のクマ。何もかもが、“凡人”の証のように思えた。
しかし翔には、昨日からずっと消えない違和感があった。
目を閉じると、昨日の夜の感覚が鮮明によみがえる。
マンションの廊下をすれ違った女の子が、不意に心の中で思っていた言葉――
「早く終わればいいのに、この世界なんか」
その言葉が、彼の頭の中に“直接響いた”のだ。
彼女の唇は一言も動いていなかった。だが、はっきりと“聞こえた”。
「夢じゃなかった……」
翔は顔を洗いながら、恐る恐る自分に問いかける。
テレパシー。そんなバカげたものが、自分に芽生えたとでも言うのか?
だが、それが妄想でないと気づかされたのは、その日の午後だった。
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派遣先の作業場――葛飾区にある「自動物流センター08号」は、巨大な無人倉庫だった。AIによって制御された搬送ロボットと、最低限の人間スタッフ。翔は“感情を持たない歯車”としてその場に立っていた。
「神崎さん、棚番号B−17のピッキングお願いします」
音声指示を受け、翔は機械的に歩き出す。倉庫内にはGPSタグが埋め込まれており、すべての作業員の位置情報が常時監視されていた。
そのときだった。後方から聞こえる同僚の足音。そして、声にならない“声”。
(まったく……今日もこのクソ作業かよ。マジでつぶれちまえよ、こんな会社)
ふと立ち止まって振り返る。誰も彼も無言だ。耳をすませても何も聞こえない。だが、はっきりと“聞いた”。怒り、疲れ、呪詛。それらの感情が、まるで空気中のノイズのように翔の意識に流れ込んできた。
(聞こえる……思ってることが……)
汗がにじんだ。だが次の瞬間、さらに異常が起きる。
警備ドローンが警告音を鳴らして翔に接近してきた。
「作業中断時間、許可を超過しました。行動理由を提示してください」
AIの冷たい音声が響く。
ヤバい、と思った。だが、咄嗟に翔は心の中で叫んでいた。
(やめろ。下がれ。俺には用はないはずだ)
次の瞬間――
ドローンは、まるで命令を打ち消されたかのようにホバリングをやめ、静かに背を向けて飛び去っていった。
周囲の作業員は、誰もその異常に気づいていない。いや、気づいても無視していたのかもしれない。関わることはリスクなのだ。この社会では。
翔は、震える手を握りしめた。
(……何が起きてるんだ? 俺に、何が……)
このとき、彼の脳内には微弱な“信号”のようなものが走っていた。電子のざわめきのような、外部の何かと繋がるノイズ。
そしてその夜、再び翔の意識は“何者か”と接触する。