プロローグ
2042年の東京には、かつての「日常」はなかった。
空にはドローンが飛び交い、監視カメラは無数の視線で人々の一挙一動を記録している。電車に乗るにも、コンビニに入るにも、個人認証が必須になった。スマートコンタクトで視界のすべてがデータと結びつく。誰と話したか、どこへ行ったか、何を買ったか。すべてが記録され、国家AIが処理する。
――自由など、もう幻想だった。
だが、それでも人は息をしていた。生きるふりをしながら、いつか何かが変わることを夢見ていた。
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神崎翔は、二十七歳の派遣労働者だった。職場を転々とし、最低限の生活を維持するためにAIの指示に従って作業をこなす日々。夢はなかった。いや、夢を見る余裕がなかった。
ある日の深夜、いつものように安アパートの一室に帰った翔は、異変に気づいた。
視界の隅に、ノイズのようなものが見えたのだ。
いや、ノイズではない。それは「人の思考」だった。
最初は幻覚かと思った。疲れすぎて脳がバグったのだと。しかし翌朝、彼は確信する。自分は、他人の意識を“感じ取る”ことができるようになっていた。
テレパシー。それが最初の能力だった。
次に起きたのは、カフェでの出来事。暴れ出した客が店員に絡み、警備ドローンが出動しかけたその瞬間、翔は「止まれ」と心の中で思った。
男は、ピタリと動きを止めた。
彼はまだ知らない。これは始まりに過ぎないことを。
この世界で「思考の自由」を持つことが、どれほどの脅威になるかを。
そして同時に、翔がその“力”の代償として何を失うかを。
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翔にはまだ、その名はなかった。
のちに「幻影」と呼ばれる存在となる、自由を求める超能力者の物語が、今、静かに幕を開ける――。