第8話 砕け散ったガラス
「今日俺がここへ来たのは……、……お前に別れを言うためだ」
長い間をおいて彼がそう零す。絞り出すような掠れた声だった。今まで聞いたことのない声だった。
しっかりと自分に目を向け発された言葉だったのに、実は別の誰かに向けられているのではないかという疑いが拭いきれない。
意味を受け止めきれず呆然としているリナリアの、乾いた唇が小刻みに戦慄いた。
久しぶりの再会だった。
二年という年月をかけてやっと現実を受け止める決心をしたばかりだったけれど、でも、それでも。
彼の顔を見た刹那、頭の中に浮かんだのは、またかつてのように一緒に暮らせるのではないかという、微かな期待だった。
けれど、そんな風に喜びに震えたのはたった一瞬で。彼の言葉がそんな淡い夢を一気に打ち砕く。
「俺は、アイリーン様の女王即位と同時に、彼女の専属護衛騎士に就任することになった。ゆくゆくは軍のトップとなり、この国を支える一人になってほしいとも、言われている。……だが、何よりも、俺が、彼女のそばにいたいんだ」
「な……なに、を……」
ざっと音を立てて血の気が引いた。
しかし絶句したリナリアのことを見つめ返す彼の瞳は、どこまでも真剣なもの。
本気だ、と思った。
本気で彼は別れを言いに来たのだ。
あの日のように、翡翠色の瞳がリナリアを見つめる。
あの日と違うのは、もうその瞳に、焦がれるような熱が灯っていないことだけ。
一瞬、彼は怒っているんじゃないかと思った。それほど、感情の読み取れない表情だった。
かつての彼とはまるで別人の表情に、リナリアは、同じ時間を共有できなかった時間の長さを思った。
もう自分の知っている彼はいないのだと思い知らされるようで、それがどうしようもなく、そしてたまらなく悲しい。
待って。そう言ったつもりだった。
だけど、口から漏れたのは、声にならないひゅうひゅうという息の音だけだった。
ルカシオンは目を細めてリナリアを一瞥すると、無言で立ち上がり、背後を向いた
「……ずっと待たせてしまって、すまなかった。もう俺のことなど忘れているかとも思ったが、一度、俺の口からちゃんと言うべきだろうと、そう思ったんだ。この家や、俺の荷物は、お前の好きにしていい。……幸せになってくれ。――リナリア」
からっぽになった頭の中に、彼の呼んだ自分の名前だけが、重く響く。その声が、リナリアを一気に現実に引き戻した。
焦燥感だけに突き動かされて、リナリアはその腕を引く。このままでは、彼が行ってしまう。きっと。自分の手の届かないところへと。
「待って……! 行かないで。お願い。行かないで! 無理だよ。私、ルカがいないと。……あなたがいないと、だめなの。お願い。そばにいてっ……!」
待って。お願い。行かないで。何度もそう口にしながら縋りついて懇願するリナリア。
そんな彼女の腕を、ルカシオンは優しく、しかし有無を言わさぬ力で振り払う。
行き場をなくした腕は勢いをつけたまま宙を漂い、机の上に置いてあったティーカップに触れた。
激しい音が耳を突く。
床に叩きつけられたガラス製のカップが、粉々に砕け散っていた。
以前、彼と街に出かけた際、時間をかけて一緒に選んだお揃いのティーカップだった。思い出の品であるそれを、彼がいない間もずっと大事に使い続けていたのだ。
ティーカップだけではない。
この家にあるものはすべて、そうだ。
一つひとつに、意味があった。
一つひとつ、吟味を重ねて彼と一緒に選んだものだった。
二人の間に、束の間沈黙が落ちる。
ルカシオンは床に落ちた、割れたティーカップをじっと見つめるように下を向いたまま、言った。
「すまない……俺が大事にしたいのはもう、お前じゃない」
どうして今更、そんなことを言うの。
ルカにとって、私は。そんな、そんなどうしようもない存在だったの。
これまで一緒に積み上げてきた日々は、過ごした時間は一体なんだったの。
言葉にできない想いが次々に嗚咽となって口から零れていく。
追いすがるように、去っていく背中を追いかけようとして、パキリ、と足元から細い音が鳴った。
割れたガラスの破片が足裏に突き刺ささったようだ。その鋭い痛みに耐えきれなくなったリナリアは、その場にへたり込む。
遠ざかる彼の姿は、すぐにぼやけて見えなくなった。
彼の拒絶を示すかのように、バタンと無情な音を立てて扉が閉ざされる。
彼は、一度も、振り返ることさえなかった。
(私を一人にしないで、ルカ……)
かつて、リナリアを泣かせないと言ってくれた彼は、もうあのときみたいにみたいに、涙を拭ってはくれない。
かつて二人で幸せな日々を過ごした残骸の中にリナリアだけを独り残し、躊躇うことなく去ってゆくその人は、まぎれもなくリナリアの見知らぬ男だった。