第5話 運命に裏切られた日
今でもありありと思い出せる。
リナリアだけのものだった彼が、別の誰かのモノになった日。
自分の夢が儚く散ったあの瞬間を。
◇ ◇ ◇
魔物に故郷を追われてから、王都で三年。
二人で共に暮らしていた。
一緒に悩みぬいて購入した家は庭付きの一軒家で、こじんまりとしつつもどこか懐かしさを感じるような居心地の良さが気に入っていた。
ルカシオンは街の警吏隊で、リナリアは家の近くの食堂で働きながら、同じ家へ帰る日々。
時折ルカシオンが功績をあげて褒賞をもらったときに奮発して良いお肉を買う程度で、決して贅沢な暮らしではなかったが、毎日『おかえり』と『ただいま』が言い合える暮らしにリナリアは満ち足りた気持ちを感じていた。
こんな暮らしがこれからも続けばいい。こうやって幸せの日々を積み重ねながら、ずっとルカと一緒に生きていきたい。――そう、思っていたのに。
ある日のこと。
その頃、魔物のせいで居住地をなくした盗賊やゴロつきが王都に秘密裏に潜入し、彼らが団結して人を襲う事件が頻繁に起きていたため、ルカシオンがわざわざリナリアの働く職場まで送り迎えをしてくれていた。
でもその日は、リナリアの仕事が終わってしばらく経っても、ルカシオンの姿が見えなかった。
店じまいの後、食堂のおかみさんは
「あの時間に厳しい旦那が珍しいね。鍵を渡すから中で待っておきな」
と気を遣って声をかけてくれたが、申し訳ないからとリナリアはその申し出を丁重に断った。
ただでさえ大雪が続き、トラブルが多い季節なのに、最近は王都がきな臭いせいでルカシオンは忙しそうにしている。
そんな彼に負担をかけたくなかったし、仕事で疲れている彼に温かい食べ物を作ってあげるため、家に早く帰っておきたかった。
ルカシオンには王都の治安が落ち着くまでは気をつけろと口を酸っぱくして何度も言われていたが、実際に危険な目に遭ったことなど一度もなかったのも要因かもしれない。
リナリアは もしすれ違いになったときのためにおかみさんに伝言を頼むと、特に深く考えることもなく雪の降りしきる王都の街へと足を踏み出した。
この瞬間を、後に何度も夢に見るほど後悔するなんで知る由もなく。
「きゃっ」
抗えないほどの強い力で腕を引かれたのは、自宅の目と鼻の先まで来たときだった。
毛むくじゃらの岩のようにゴツゴツとした腕がリナリアの口を塞ぎ、凄まじい力で建物の間に細く伸びる脇道に引っ張り込む。
「大人しくしろ」
耳元で聞こえた野太い声にギクリとして恐る恐る視線を動かすと、薄汚れた格好をした大きな体躯の男が、下卑た笑みを貼りつけニタニタと笑っていた。
心臓を氷の手で掴まれたような恐怖を覚え、リナリアはなんとか拘束を解こうともがいたが、男の歩く速度は少しも緩まない。そのままずるずると引きずられるようにして路地の奥へと連れて行かれる。
丸太のように太い腕で、まるで荷物を引きずるようにスタスタと歩いていくその男は、人通りどころか、夕日すらも差さない暗くてじめじとした裏路地に到着した瞬間、リナリアを冷たく凍った地面に放り投げた。
バランスを失ってふらりとよろめき、リナリアは地面に両手をつく。反射的に前方を見上げると、周りにはリナリアをここまで連れてきた男と似た、薄汚れた格好をした男たちが十人ほどいて、獲物を前に舌舐めずりする獣のような視線を向けていた。
「黒髪黒目とは珍しい容姿をしているな」
「ああ、高く売れそうだ」
ケッケッケッと無気味に笑い合う男たちの、その薄汚い笑みに頭が真っ白になったリナリアは、これから自分の身に起こる未来を想像して無意識のうちに金切り声を上げていた。
「い、いやぁぁっ!! ルカぁぁっ!!」
何かがあったとき、一番に思い浮かんでしまうのはやっぱり、彼の姿だった。
そしてその瞬間。
ヒュッと風を切るような音が聞こえたかと思うと、リナリアの横に立っていた男の姿が視界から消えた。
「え……?」
何が起きたのか理解するよりも早く、ドンッという大きな音を立てて男の体が地面に倒れ込む。
その背中は大きく斜めに切られ、そこから鮮血が勢いよく噴き出していた。
「っ! ……リナリア! 無事かっ!?」
「ルカッ……!」
いつも冷静沈着なルカシオンが声を荒げるのを聞いたのは、この時が初めてだった。
彼は肩で息をしながら、手に握る剣に付着した血を振り払う。その目は鋭く光り、リナリアを取り囲む男たちを睨みつけていた。
「……お前ら、よくも俺のリナリアに触れてくれたな……」
地に響くようなその低い声がルカシオンのものであると気付いた瞬間、もう彼は距離を詰め、すでに男たちの間合いに入っていた。
「うっ……! あぁぁぁっ!! う、腕が!!」
断末魔のような声とともにさらに一人の男がその場に崩れ落ち、腕を押さえてのたうち回る。
「リナリア! 逃げろ!」
「っ……!」
緊迫感のあるその声に、リナリアは反射的に立ち上がると、男たちに背を向けて駆け出す。
後ろからは野太い怒号やうめき声、剣のぶつかる音などが絶え間なく聞こえていて、そんなところにルカシオンを一人で残すことに、後ろ髪が引かれる思いだった。
(だけど……私がここにいても、足手纏いにしかならない……)
いくら警吏隊に所属しているとはいえ、彼一人であの人数が相手にできるとは思えない。だからとにかく助けを呼ぼうと、焦燥する頭の中でそれだけを考える。
リナリアは先ほど引きずられるように歩いた建物の間をすり抜け大通りに出ると、息切れしながらも必死に叫んだ。
「すみません! 賊がっ……賊が出ましたっ!! 助けてください! 警吏隊を! 誰かっ……!!」
大通りは人通りも多い。
必死に大声を出すリナリアに道行く人の何人かが立ち止まったが、返り血を浴びて凄惨な状態のリナリアに気づくとギョッとしたように目を向き、関わりたくないとでもいうように視線を逸らして足早に立ち去っていく。
(そ、そんな……)
絶望に目の前が真っ暗になりかけた、その瞬間。
「賊はどこなの? 案内してちょうだい」
目の前で急停止した馬車から、しなやかな体を滑らせるようにして素早く降りてきた若い女性が、腰に下げた剣に手を当てながらリナリアの叫びに応えた。
こんなときだというのに、リナリアは束の間見惚れてしまう。小柄なリナリアからだと見上げるほど上背のあるその女性は、簡素なパンツスタイルに身を包んでいたが、ハッとするような洗練された雰囲気があった。
一瞬で我に返ったリナリアは自分の今来た方向を指さし縋るような声を出す。
「こちらですっ! ルカが……、今一人で戦っていて……」
「大丈夫よ、わたくしに任せて。あなたたち、ついてきなさい」
「ひ、ひめ……いえ、アイリーン様。勝手な行動はお控えください!」
「いいから! 責任はわたくしが取るわ」
後ろから現れた騎士らしき男たちの焦ったような声を鋭く一刀両断すると、脇目も振らず一番に走り出す。
それに続いた騎士たちに一拍遅れてリナリアも後を追った。
その場を離れていた時間はそう長くなかったが、リナリアが引きずり込まれた裏路地が遠くに見えてくると想像以上に状況が悪化しているのがわかる。
大勢に一人で対峙していたルカシオンは満身創痍のようで、ぜいぜいと呼吸を乱し、体にはところどころ傷もできていた。
眉下も横一線に切られていたようで、たらりと垂れてきた自分の血に彼が気を取られた瞬間。隙をついて賊の一人が大きいナイフのようなものを振りかぶった。
「危ない!」
そう叫んだのは誰だったのだろうか。
目の前で起こっていることがリナリアには全てスローモーションのように感じられた。
ナイフが今にも彼の胸に突き立てられそうになるのを見ながら、臆病でなんの力も持たない自分のことを心の奥底から呪う。
(どうして……どうして私の体は動かないの)
いつも助けられてばかりだった。
孤児院にいたときも、王都に来てからも。
ルカシオンの後ろに庇われて、彼の大きな背中が目の前にあると安心して……。
でも、そんな安寧の先に彼を失う未来があるというのなら、そんなものなんの意味もない。だから――
――
(どうか、神様、お願いします……! 私のもっている全部を捧げたって構わないから……どうか彼のことを助けて……!)
その願いは叶えられた。
神様ではなく……ひとりのお姫様によって。
――ガキンッ
金属同士の擦れ合う鈍い音があたりに響く。
はっと声にならない息を喉奥から絞り出したリナリアの目には、勇ましく剣でナイフを薙ぎ払いながらルカシオンの目の前に飛び出した、ひとりの少女の姿が映った。
勇敢なその少女は、風のような速さで駆け回っては、その細腕で幾度も剣を振り、数人の騎士たちと協力しながら次々と賊を打ち負かしていく。
リナリアはただひたすら、ルカシオンの姿を見つめていた。
勇敢な少女を食い入るように見つめる、彼の姿を。