第3話 医務室の常連客
コトリ、と陶器がぶつかる音に浅い眠りを妨害され、目が覚めた。
途端、嗅ぎなれた薬品の混ざったツンとした匂いが鼻を通り抜け、自分が医務室に運ばれていたことを思い出す。
「んん……」
「あらっ。リナリア、気がついた?」
ベッドにうつ伏せになったまま視線だけを上げれば、リナリアの覗き込むようにして白衣を着た女性が半身をこちらに傾けていた。
「起きられそう? 薬用意してるけど」
背中にそっと手を添えられて体を起こすと、差し出された薬と水を受け取る。
昔から体の弱かったリナリアは、必死に努力してなんとか軍に入ることはできたものの、入隊した当初から無理をして倒れることも多かったため、すっかり医務室の常連である。
ただ、倒れるたびに罰のように渡される薬は思わず渋面をつくってしまうほど苦く、慣れることはない。何度も咳き込みながら、やっと何口かに分けて薬を水で喉の奥に流し込んだ。
「……はぁ。ありがとう、マレサ」
「いーえ? いいのよ、仕事だしね」
そう言ってからからと笑う医務官の彼女とも、すっかり見知った仲である。
「私、また訓練中に倒れたの?」
「そうね。最近また多くなってきたんじゃない?」
「うん……。でももうすぐ、魔物の大規模な殲滅作戦があるから」
「あー、そうだったわね。『竜殺し』の英雄サマのおかげで魔物がバラバラになっている今こそ本拠地を叩いて全滅させるチャンスだ、なんて。人間もなかなか鬼畜なことするわ」
彼女は医者だからなのか、人間も魔物も『生物』として同じ括りで見ているようだ。変わり者が多いと言われる医務室の中でも、彼女のクセの強さはピカイチだと思う。
でも、そんな彼女の持ち前の素直さをリナリアは気に入っていた。自分にはないものだからなのかもしれない。
「ルカも、最近忙しくてあまり眠れてないみたい。さっき話したとき、目の下に隈があったから」
「はぁ~。リナリア、あんたまだそんなこと言ってんの? いつも事あるごとにルカ、ルカって……あんなクズさっさと忘れて新しい恋でもしなさいよ」
国中で持て囃されている英雄をクズ呼ばわりできるのはマレサくらいのものだろう。度々相談をしているので、彼女はリナリアとルカシオンの関係を知っている。
「ルカはクズじゃない、よ……」
「十年以上一緒にいた恋人捨ててすぐ新しい女に乗り換える男なのよ」
「それは……アイリーン様が前国王陛下たちを一度に亡くされて大変な時期だったから……それに隣国との関係も危うい頃だったし……」
「はいはい。それで可哀想なお姫様のために同情して騎士の誓いまで立てて四六時中一緒にいるって言うの? 流石は高潔な騎士様ね」
皮肉げな口調が容赦なくリナリアの胸を抉った。
だけどリナリア自身も嫌というほどに理解しているのだ。
なぜこの時期に大規模な魔物の殲滅作戦が組まれたのか。
孤独な女王に寄り添う相手として、人々が期待しているのは誰なのか。
そしてあの日から変わってしまった、彼の態度の意味も。
――わかる。だから、焦っている。きっともうあまり、時間がない。
『この国の礎を支える由緒正しきキーストン公爵家が英雄ルカシオン様を本家の養子として迎え入れる手はずを整えている』
最近王宮の役人や使用人がひそやかに口にしている噂が蘇る。
リナリアだけの『ルカ』だった彼は、もうすぐ、『ルカシオン・キーストン』となる。そしてきっとその後は――。
(嫌……! 彼の隣に私以外がいるのなんて、耐えられない)
理解はしていても、納得できるかどうかは別だ。
リナリアのおなかの内側あたりに住んでいる、いつもは幸せな夢を見ながら眠っている小さな女の子が、いやだいやだと泣き喚く。
好きな人にさよならを言う勇気を強さと呼ぶのなら、そんなのいらない! 過去に囚われず未来を見て生きていくのが強い人だというのなら、そうじゃなくていい!
惨めでも、かっこ悪くても、彼のことを諦めるなんてできないのだ。
彼はあっという間に、リナリアの手の届かないところへ昇りつめていしまった。
だからここで立ち止まってなどいられない。
少しでも彼の隣にふさわしい自分になりたい。
一刻も早く彼の傍にいる権利が欲しい。
かつて二人でともに抱いた夢は叶わなかったけれど、自分にできることがある限り、もがき続けると決めたのだから。
憂鬱な気分を取り払うようにベッドから立ち上がろうとしたリナリアだったが、すかさずマレサに引き留められる。
「ちょっと。何か勇ましい顔してるところ悪いけど、今は絶対安静よ。また痩せたみたいだし……訓練ばかりして、ろくに眠ってもいないんでしょ? このままじゃ殲滅作戦にすら参加させてもらえないわよ」
「うう……」
痛いところを突かれ、唸るリナリアを呆れたように見つめた後、ウェーブのかかった栗色の髪をくるくると髪を指に巻き付けながらボソッと呟いた。
「愛しの英雄サマも心配してたしね」
「え……、ルカ、が……?」
「ええ。倒れてたから知らないでしょうけど、あなたをここまで運んできたの、彼だったのよ。以前よりも明らかに痩せているが大丈夫なのかって、わざわざあたしに訊いてきたし」
その言葉に、最近沈みがちだった気分が一気に浮上する。
やっぱり彼の根本の部分は、変わっていないのだ。
昔から、リナリアのこととなると、些細なことでもすぐに気づいてくれる人だった。
そんな彼の変わらない優しさが垣間見えた気がして、思わずにまにまと顔が緩んでしまう。
「まったく……どうしようもない二人ね」
マレサが思わずといったようにため息を吐いた。