確かに私は悪女でしょうね
「アナターシア……なぜ、私の愛を受け入れてくれない?」
「そんなものを受け入れるくらいなら、悪女と嘲られたほうがましですわ……いえ、比較にもなりませんわね」
私は、この男が嫌いだ。
首を垂れた麦を思わせる黄金の髪と、紺碧の瞳。レオナルド・アルテンシアは、私の婚約者だ。どれだけ私が嫌っても、拒絶しても、その立場が変わることはない――彼は王子で、私は侯爵令嬢だからだ。
次期国王と結んだこの契約を、ソフィスタ侯爵家に生まれ育ったものとして、蹴ることができるはずがない。
けれど、にじり寄ってくる王子を前に、拒絶しないわけにはいかない。
「なぜだ、なぜ、お前は私を受け入れてくれないッ!?」
「そんな重いもの、受け入れられるはずがないでしょうッ!?」
王子が突き出したそれをひったくる。重い。
その重さは、クリームの重さ。
そして、カロリーの重さ。
明らかに数人で、しかも一切れ食べればしばらくは甘いものが全く受け付けられなくなるような、砂糖とあぶらの塊。そんなものを、私が、受け入れると本気で思っているのか。
「こんなもの……誰が食べますかッ」
完璧なプロポーションのため。鍛えた足腰をひねり、そして。
レオナルド王子の顔面に、そのこってりケーキを叩きつける。
白いクリームが飛び散る。ちぎれたスポンジが宙を舞い、皿が落ちて割れる。
重い一撃を顔面に受けた王子殿下は、当然その美貌も見る影もなく。
白クリームの怪人となり果て、倒れこむ。
「悪女……」
「やはり、彼女は憑りつかれているのだ……ッ」
肩で息をしながら、言いたい放題する見物人たちに心の中で叫ぶ。
殿下の顔面に、贈り物のケーキを投げつける私は、確かに悪女でしょうね。けれど――
――憑りつかれているのは、そこで倒れている王子殿下だと。
「いやぁ、傑作だったよ。今日もまた、寸分たがわぬ投げつけ。欲を言えば、以前やって見せたようにこう、顔面に叩きつけた後に、ぐりぐりと皿を押し込んで目鼻にクリームをねじ込んであげて欲しかったところなんだけれどね」
悪辣な笑みで告げるのは、セオドア・ソフィスタ。
一人娘である私が婿養子を取るわけにもいかずに、養子として迎え入れた私の義弟。銀髪青目のセオドアと赤髪緑目の私とでは、容姿も髪や瞳の色も、当然のことながら性格も違う。
けれど私たちはいつからか、悪辣姉弟と呼ばれるようになってしまっていた。
それはセオドアの毒舌のせいで、そして、私が殿下と繰り広げる試練のせい。
「いい加減に殿下の愛を受け入れたらどう?妃になってからもそれじゃあ、殿下の心が移ってしまうよ」
「愛と書いてカロリーと読む、そんな重いものはいりませんわ」
「相変わらず尖ってるねぇ。そんなんだから悪女だと言われるんだよ」
「貴方に言われたくはないわね。第一、殿下に余計なことを言ったのは貴方でしょ」
「僕はあくまで、ソフィスタ家の繁栄のために最善を尽くしたまでだよ」
鼻で笑うセオドアが憎くて仕方がない。最近のレオナルド殿下の暴走は、セオドアの余計な入れ知恵によるものだというのに。
「貴方が『好かぬなら変えてしまえ』なんてふざけたことを言うのがいけないのよ」
「僕は殿下の耳元でちょちょいと囁いただけなのに。殿下は僕の言葉を受けて、未来の妃の改造計画に励んでいるわけだけれど……まあ、かわいらしいものだよね」
「どこが可愛らしいのよ」
「どこがって、今日はホールケーキ、昨日はバタークッキー、その前はカフェオレ、さらに前は……なんだっけ?」
「一巡してホールケーキね。……どこの婚約者に、ホールケーキ一つを相手に丸ごと食べてくれと捧げる馬鹿がいるのよ」
「現にいるじゃないか」
ああ、本当に、どうしてこうなった。
これでは、殿下が私との婚約に乗り気じゃなかった頃のほうがよほどましだった。私はただ、彼が存在しないように未来の妃として勉学に励めばよかった。彼もまた、未来の国王として勤勉に学び、時折おいたをするくらい。その程度、鼻で笑って許せたのに。
すべては私と殿下を翻弄してあざ笑う、この腹黒義弟が原因だというのに。
「そんなに殿下からのケーキが愛らしいというのなら、私にも考えがあるわ」
「おお怖い怖い……けれど、もう以前のようにはいかないよ」
火花を散らしながら、私たちはにらみ合う。
体を揺らす振動が止まり、馬車が屋敷についたことを知らせる。
「明日が楽しみだね」
「必ずそのいけ好かない顔をクリームで染めてやるわ」
「残念、明日は間違いなくケーキではないね」
「……それはどうかしらね」
目を細めたセオドアが瞳の置くだけで笑う。
差し出され手をそっと握って、私たちは馬車から降りる。
使用人たちに見守られながら、私たちは視線だけで言い合いを再開させた。
「……これでいいわね。マリエッタ。これを届けて頂戴」
「はい……お嬢様が、第一王子殿下にお手紙ですか!?」
素っ頓狂な悲鳴を上げた使用人は、もう一度頬をつねり、目じりに涙を浮かべながら、目を皿にして宛名をにらむ。そんなことをしても、見える文字が変わるはずがないのに。
「……私はきっと、職務中に寝入ってしまったのですね。ああ、明日の罰が怖くてたまりません」
「あら、そんなにご希望なら、私を前にしてみっともなく叫びをあげた罰を与えようかしら」
「すぐに言ってまいります」
言うが早いか、マリエッタは踵を返し、一瞬で姿を眩ませる。
「……有能なのに、言動がおバカなのよね」
手の中にあるペンを指でもてあそびながら、先ほど書いた文面を思い出しながら笑う。
思い出し笑いなど淑女としてはしたないにもほどがあるものの、今なら許せた。
「見てなさい。レオナルド殿下、そしてセオドア……明日が楽しみね」
ちらと窓の外を見れば、すでに月が高くに上っていた。夜は更け、そろそろ明日の学園のために眠らなければまずい時間。
おそらくは今も執務に翻弄されている殿下が、これから私の手紙にさらに翻弄されると思うと、楽しみで仕方がなかった。
翌朝。
いつになくすっきりと目が覚めたのは、きっと心に気力が満ち満ちているから。
「今日のお嬢様はご機嫌ですね」
「そうかしら?……まあ、そうかもしれないわね」
鏡の中の自分は、今日も完璧なプロポーションをキープしている。髪の手入れも問題なく、毛はねの一つもない。
「さぁ、出陣と行きましょうか」
「よくわかりませんが、頑張ってくださいませ」
マリアンヌに見送られて部屋を出れば、そこにはすでにセオドアが待っていた。
「おはよう」
「おはよう。今日は少しいつもよりも早いね」
「そうかしら?……まあ、たまには早く目覚めることもあるわよ」
嘘が下手だと、セオドアの目が語る。
そういう貴方もいつもより目つきが鋭いと、私もにらみ返す。
「うふふふふふ」
「くくくくくく」
笑いあう私たちのそばから、すたこらメイドたちが逃げていった。
食事を終え、学園に向かう。今年で卒業とはいえ、特に思い入れはない。
妃教育でほとんど講義には出席できておらず、友人たちと会う場は何も学園である必要もなかったのだから。最も、最近の友人たちは、私と殿下の対立を「じゃれあい」と称して高みの見物をしており、あまり近づきたくないのだけれど。
「やぁ、アナターシア。それにセオドアも」
「おはようございます、レオナルド殿下」
「おはようございます、アルテンシアの第一星」
相変わらず固いと、レオナルド殿下は気安くセオドアの肩を叩く。セオドアもまた、肩をすくめてふざけたのを謝罪する。いつもの流れ。そして、その間にキャスター付きのワゴンを押して王宮の使用人が近づいてくるのもいつものこと。
「……さぁアナターシア。今日こそ私の愛を受け入れてくれるのだと知って、昨日は眠れなかったよ。私のいっぱいの愛を受け取ってくれ」
クローシュが取られる。
そこにあるのは、昨夜、殿下に手紙で頼んだケーキ。クリームがないのは残念だが、その分質量がありそうだからよしと思うことにした。
現れたはちみつたっぷりパンプキンパイを王子殿下が恭しく私に差し出す。
「あら、ありがとう」
余計なことを言うなと、舌打ちしたい気持ちを抑えて、私はパイに手を伸ばす。
周囲にざわめきなど、すでに耳には入らない。
さぁ、今日がケーキの日ではないと気を抜いていた輩に罰を下すのよ。
「どっせいッ」
令嬢にあるまじき発言だとか、そんなものは気にしない。そうしたどうでもいいことは、豚にでも食わせておけばいい。
腰をひねり、そのらせん運動を肩へとつなげる。全力で、投擲。
手の中にあった皿が、まっすぐにセオドアへと飛ぶ。
さぁ、顔面に食らうと――
「ん?」
銀のものが、視界の中で動く。
先ほど使用人が取り去ったはずのクローシュが、いつの間にかセオドアの手に握られている。それが、セオドアの顔をかくし、そして。
すっぽりと、クローシュの内側にパイが収まる。
べりゃりと音を響かせてつぶれたパイを、セオドアは器用にクローシュの上にとどめて、私に向かってお辞儀する。
嘲りの視線とともに。
「な……ッ」
腕が振るえた。もしこの場にケーキがあったら、私は二投目を放っていたことだろう。けれど今の私の手元に、投げられるものは一つもなかった。さすがに、固いものを投げないくらいの分別はあるから、扇は投擲できない。
「……そんな、せっかく、徹夜したのに……」
どさりと音がした。
見れば、そこには頽れ、膝を地面についている王子殿下の姿があった。
よく見ればその目元にはうっすらと隈が見えた。化粧でも隠し切れない隈。
それは、ただでさえ少ない睡眠時間を削り、甘味を削った証。しかも、私の要望のために、作るものを変更し、時間をかけて――。
「どんな気持ち?ねぇ、今、どんな気持ち?」
「……うるさい」
さすがの私も、罪悪感を抱かずにはいられなかった。
捨てられた猫のように、殿下は涙目で私を見上げていた。クローシュにひっくり返って収まったケーキを、セオドアが近づけてくる。
むわりと、はちみつの豊潤な香りが漂う。少しならいいものの、よく見れば、はちみつそのものがつぶれたケーキから顔を見せるほどの量。わずかな焦げが香ばしく、シナモンが優しく匂う。
「……どうしろっていうのよ」
「わかるでしょ?ね?」
無言の笑みが一つ。
逃げるように下を向けば、すがる目が一つ。
それから、周囲のひそひそとした囁き声。
『ひどいよね』
『作らせたケーキを投げ捨てたわけだろ……さすがに無いな』
『やっぱり悪女よね』
そう。今日のケーキは、王子殿下が無理やり私に押し付けようとしたケーキではない。私がセオドアに攻撃するために依頼して、用意させたケーキ。
手紙に、ケーキを食べたいとは書いていない。ただ、明日はどんなケーキなのかしらと、そうつづっただけ。だが、物証は殿下の手の中にある。つまりは、私は己の策にはまったのだ。
「ん?どうしたの?まさか、アナターシア・ソフィスタともあろうものが、どうすればいいかわからないとか?」
「~~~~~~ッ、わかっているわよ!カトラリー!」
ざわりと、見守っていた使用人がざわつく。呆けたように口を開けていた王子が、しばらくして、ポン、と手を打つ。
「ずっと食べてくれずにいたものだから、フォークとナイフを持ってくるという発想がなかったな」
「……じゃあ仕方がないわね」
「仕方なくないよね?」
ずい、とセオドアが近づく。はちみつの香りが強くなる。節制して体型を保っているだけで、私は甘いものは嫌いではないのに。特にパンプキンパイは、月に一度のご褒美なのに……。
ここにきて、私はようやく気付いた。これはすべてセオドアの姦計だったのだと。
私をあおり、殿下にケーキを作らせるように仕向け、投げられたケーキを食べられる状態で回収し、私の好物を突き付ける。
パンプキンパイであったことも、セオドアがクローシュを回収していて器用に受けとめたことも、これで全て説明がつく。
そして、化粧で隠せるだろう殿下の目の下の隈が、あえて見せられていることも。
はめられた。気づいて、けれどもう遅かった。
すでに大衆は、私にパイを食べさせる流れになっていた。
無言の時が流れる。セオドアが、いい笑顔でもう一歩近づく。
焦げたカボチャの柔らかな香りが、鼻孔をくすぐる。
「さぁ……覚悟を決めようか」
そうして、私は――
アルテンシア王国現第一王子レオナルドは、ふくよかな女性を好む、変わった趣向を持っている。
だが、ほっそりとした腰回りが美しいとされる風潮にあって、レオナルドの趣向に合った女性が婚約者になることはなかった。
だからレオナルドは、ぽっちゃりな下級貴族令嬢に入れ込みかけていたわけで。
「まあ、俺の姉を袖にするようなことをして、許すはずがないわけだ」
扉の前、許可が出るのをのんびり待ちながら独り言を言えば、左右に侍る女性騎士から胡乱な視線を向けられた。
他の女性ならこうはいかないのだが、すでにアナターシアから俺について知らされているらしく、その警戒をすり抜けて心をつかむのは容易ではなさそうだった。
『……いいわよ』
扉の向こう、敬愛する義姉アナターシアの声とともに扉が開かれる。
果たしてその先にいた、純白のドレスに身を包んだ女性を見て。
「……ぶふっ」
「………………」
思わず噴き出した俺は、きっと悪くない。
王国一のプロポーション――希代の美女ともてはやされていた女性の姿は、もう影も形もない。そこには肥えに肥えたわがままボディを揺らすむっちり女の姿があった。
一度殿下のケーキを食べてしまえば、あとはなし崩し。
アナターシアは殿下の愛を受け入れるようになり、あとはもう、一瞬だった。
みるみるうちに太り、そして、義姉を悪女と呼ぶ声はなくなった。
体型とともに性格が丸くなったというのもある。だがそれ以上に、悪女と呼んで嫉妬される女でなくなったというのも大きい。
背後、閉ざされた扉の音を聞きながら、意図的にニヤニヤと笑ってやる。別に義姉がいけ好かないというわけではない。互いに腹に一物抱える者同士、遠慮のない交流をしてきた。そういう気安さゆえに、俺は盛大に嘲るのだ。
義姉が、そうしてきたように。
「愛の前に陥落した気持ちはどうだ?」
「……無様な私を笑えばいいでしょ」
「そうさせてもらうよ。くく、ははははは、いや、本当に、まさかこうも上手く行くとはな」
これで、ソフィスタ家の未来はしばらく盤石。俺は王子のご意見役として、おそらくは宰相補佐くらいの地位に収まる――さすがに宰相までソフィスタ家で占めると、他家からのやっかみが強すぎるからな。
そして丸々と肥え太った義姉は、確かな寵愛を獲得した。
「醜いでしょう?」
「ん?髪と瞳は変わらないな」
「……それは、そうかもしれないわね」
燃えるような髪。いつだったか、引き取られた先のソフィスタ家の厳しい教育に耐えかねて木の上に逃げた俺のもとに駆け付けた幼い姉の顔を思い出した。燃えるような夕日を背に俺に手を差し伸べる姉の、あの無邪気な笑みは、きっともう見ることはかなわない。親愛のこもった緑の目が向くのは、俺ではない。
だが、それでいい。これで、すべてが丸く収まった。
「セオドアッ」
背後、扉が勢いよく開け放たれる音とともに、着飾ったレオナルド殿下が入室してくる。
「淑女の部屋を訪ねるのに、ノックもなしに俺の名を呼ぶのか。それでよく国一番の紳士が務まるな」
「私よりも先に愛しのアナターシアをその目に収めた不届き者がよくもぬけぬけと」
だが、今日ほど殿下の怒りから逃げるのがたやすい日はない。
すっと横に良ければ、殿下の目には着飾ったアナターシアの姿が映る。王子好みに太った、豚のような女の姿が。
「おお……」
感嘆の吐息がこぼれる。少し恥ずかしそうに身をよじるアナターシアの腹で、肉がうねる。
「やはり、私の目に狂いはなかった。そなたは……美しい」
「そう、ですか」
スン、と瞳から光を消したあたり、まだ義姉は今の己を受け入れられてはいないようだった。
けれど、差し出された手を取るその顔には、確かな幸福があった。
互いに微笑みあい、幸せを分かち合いながら二人が歩き出す。その後ろ姿を見送りながら、そっと、胸に手を当てる。
痛みは無かった。確かに、消えていた。
「……さすがに、あの姿は受け入れなれない、か」
本当に、すべてが丸く収まった。そう笑みをこぼして。
「ああ、もしあの日に戻れるならば、今度こそ殿下に絶縁状を叩きつけてやるものを――」
心のこもっていない捨て台詞を聞いて、俺は今度こそ、涙がにじむほどに声を上げて笑った。
それでこそ、俺の知る義姉アナターシアだと。