感化
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「くそ……! くそ!!」
目の前はひたすら雪道だった。
彼にとって唯一の精神安定剤だった不安定な重みと背中で感じる体温はもうない。
それがなくなった今、自責の念と無力さからの苛立ちに耐えきれず情けないほどの涙が溢れてくる。
大塚はバイクを止めた。
目に焼きついて離れないのは、真壁の小刻みに震える手足。
彼女はそれを隠すように、無理矢理毅然な態度をとっていた。
「どうすりゃいいんだよ!!」
大塚の悲痛な叫びは降り頻る雪によって覆い隠され、誰かに届くことはなかった。
ーー警察官になったのは、なんとなくだった。
なんとなく、人の為になる仕事をしていれば周囲からの印象が良くなると思ったからだ。
交通課を志望し続けたのも、ただ単に大型バイクに乗るのが好きだったから。
しかしそんな軽い気持ちで警察官を続けるにはあまりにも日々が過酷過ぎた。
自分に子どもができたある時、下校中の子どもたちの列に車が突っ込んだ。
泣き叫ぶ子ども、頭が潰れた子ども、そこら中が血の海だった。
泣き叫ぶ子どもと頭が潰れた子どもとの距離ーーそれが生死の境だった。
遺体を見ることに抵抗を感じることはもうなかった。
もし死んだのが自分の子どもだったら、そう考えてしまうことが一番堪えた。
死んでしまうのはーー被害者になり得るのは、大人だけではない。
そんなこととっくにわかっていたのに、自分に子どもができてから現場を目の当たりにすると恐ろしくて堪らなかった。
加害者と被害者を出さない。
大切な人が住む町を守る、その為に自分がいる。
誰かがやらなくてはならない辛いこの仕事を、自分がやるんだ。
いつしか彼の中には正義感というものが芽生えていた。
しかしその正義感は、今や彼にとってなんの価値もないものとなってしまった。
ーーもし、あなたの子どもが吹雪の中、あるはずのないものを探して防空壕で一人きりで亡くなったとしたら、どうされますか。同級生に一番大切な物を奪われて、必死に返してほしいと懇願して、それでも返してもらえずに嘘まで吐かれて、寒さと空腹と後悔の中で一人きりで死んだとしたらーー
一回り以上年下の子どもに諭されたあの時、大塚はこう思った。
俺がやってきたことは所詮、過去犯した自分の罪から目を背けるための免罪符に過ぎなかったんだな。
小宮佳奈を忘れるため、その時の目の前のことに必死になって、結果思惑通り周囲に認めてもらってただ悦に浸っていただけ。
彼女のことなど本当にとっくに忘れてしまっていた。
そして今も同じことを繰り返している。
真壁を見捨てるための理由付けをひたすら探して、自分の行動を正当化しようとしているのだ。
真壁に何かあったとしても、小宮佳奈や内海と同じように忘れてまた自分の人生を生きるのだろう。
ーー忘れちまえるなら、見捨てたっていいじゃねえか。
ふと、そんな考えが頭を過ぎった。
しかしそんな考えを掻き消すかのように、とある言葉が思い起こされる。
『俺、大塚先輩みたいなかっこいい男になりたいんですよね。周りの目なんて関係なしに、自分の正義貫いてやります!』
内海が見ていた大塚は幻想だ。
しかし彼はそれを信じて、友膳と追っていた事件を異動になってからも一人で追い続けていた。
「……ばかじゃねえの」
死んじまったら意味ねえだろ。
周りに忘れられて自分の大切なもんまで失って、お前がしてきたことになんの意味があんだよ。
その時、ぶわっと生温い風が吹いた。
雪が降っているのに冷たい風ではないことに違和感を覚えて顔を上げる。
目の前にはかつての後輩の姿があった。
彼は何かを訴えるような目で大塚を見つめている。
『意味はこれからです』
口を開いてそう言ったわけではない。
それなのに、確かに彼の声でそう聞こえた。
大塚はそれを見て力なく笑った。
「……っはは。そりゃ逃げられねえな」
内海に背を向けてバイクの方向を変える。
そして真壁からもらった札をバイクの燃料タンクに貼り付けた。
なんの効果があるのかは知らないが、ないよりマシだろう。
振り返ると、既に内海の姿はなかった。
自分の頭で作り出した幻だったのか、それとも本物の幽霊だったのかはわからない。
どちらにせよ、やるべきことは決まった。
内海雄大が命を懸けた意味を与えに行く。
彼が命を懸けたのは、自分の正義を貫いて人を救うためだ。
それは決して無駄死になんかじゃない。
ここにその生き様に感化された馬鹿がいるのだから。
「お前はつくづく先輩に恵まれなかったな」
お前を一人にさせた友膳も、全てを知ってて野放しにしてた俺も、馬鹿ばっかだ。
大塚はバイクを走らせた。
生温い風と共に雪が頬を冷やす。
それとは対照的に、バイクの燃料タンクは徐々に熱を帯び始めた。
そこに雪が付着した途端、ジュワッと音を立てて蒸発するほどだ。
触ることもできない。
「マジかよ」
しまいには札が燃え始めた。
いつ爆発するかもわからない状況だが、真壁のところまでもう目と鼻の先だ。
数十メートル先に、真壁の身体が力無く宙にぶら下がっているのが見える。
その少し離れた所には道祖神が立っていた。
大塚は止まらず、むしろスピードを上げていく。
道祖神を壊す。
真壁はそう言っていた。
ーーであれば、どんな方法でもそれが破壊できりゃいいってことだろ。
四十、五十、六十。
バイクは炎に包まれながらスピードを上げる。
身体ごと熱に包まれ、どうなっているのかもわからないまま突っ込んだ。
数メートル先までヒビの入った道祖神が迫った瞬間。
大塚は自分の全運動神経に集中力を集め、バイクから飛び降りた。
無人のバイクはよろめきながら道祖神へと突っ込む。
そして大きな爆発音と共に爆破した。
地面に横たわる大塚の上には、爆風によって粉々になった道祖神やバイクの破片が降り注いだ。