降雪
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ひよりの震える小さな背を見て、巧は拳を固く握り締めた。
実体がないくせに、拳の痛みはしっかりと感じる。
人を愛した経験のある彼にとって、彼女がどんなふうに先生のことを想っているのか想像するのは容易だった。
それなのに、その先生とたった数日過ごしただけの自分を天秤にかけるような真似をした。
どんなに先生を愛していたとしても、優しい彼女ならきっと、目の前の自分を見捨てることはできない。
死なせないためとはいえ、彼女の優しさを利用してしまった。
水龍に言われたことが今になって刺さる。
ーー巧が茜川小学校の図書室に飛ばされた時。
外は暗く、窓から差し込む月明かりだけが室内を照らしていた。
空間は水面のように揺らめきだし、本は本棚から飛び出して水中を揺蕩うように宙に浮く。
このような幻想的な光景を前にしても、不思議と心は冷静だった。
自分の身体も水中に浮かんでいるかのような浮遊感に襲われたかと思えば、空気の揺れで何か大きな蛇のようなモノが周囲をぐるりと囲むのを感じる。
『……僅かだが陽春の気配がするな』
男の声がする。
警戒しているのがわかった。
「水龍か」
葵に渡された土鈴を見せると、警戒心を解いたのか水龍はその姿を現した。
清らかな水で形成された龍の身体が、月明かりに反射して輝いている。
その美しさに思わず圧倒された。
『あの男が貴様に後を託したのなら、奴と取引をした我も貴様に託すしかないようだ。ーー我の使命はかつてこの地の魂の安寧を、水の清らかさと共に守ることだった。産土神と呼ばれていたこともあったが、堕ちた今となっては神とは程遠い。好きに呼べ』
「思ったより友好的で助かるよ」
なぜここに飛ばされたのかはわからないが、ひよりがそばにいないということは別の場所にいるのだろう。
ともあれ、ここまで友好的に会話をしてくれるのであれば聞きたいことは多くある。
巧は一度深く呼吸をして目の前の水龍を見つめた。
『そう焦らずとも、あの女はまだ我と接触してはおらん』
「わかるのか?」
『ここにいる我と神社にいる我、どちらも我だ。考えも感情も感覚も共有している』
「だったら少しくらい自制してくれると助かるんだが」
『不可能だ。我は我でもそれぞれ自我がある。我は人間を憎んでいるが、我は榊の血を引く人間以外、我が子のように想っている』
隠し神と水龍どちらも自分だと認識しているせいでややこしい。
自覚のある二重人格みたいなものか。
それにしても、榊家が歴史のある古い家だとは聞いていたが、堕ちた神から名指しで警戒されるほどとは。
友膳が榊家を見張っているのにも、それなりの理由がありそうだ。
「どうして榊家をそこまで警戒してるんだ?」
『本能みたいなものだ。神であれば何も感じはしないだろうが、堕ちた今では存在が不快だ。あの小娘も例外ではないが、あれは我をこの地に喚んだ者の血と、それを継ぐ女の魂が宿っている。故に、我を神か妖かを定することができるのはあの女だけだ。本気で喰おうとまでは思わん』
「それは、ひよりさんのことか」
『確か陽春がその名で呼んでいたな。久方ぶりに目にしたが、相変わらずふてぶてしい小娘よ。断りもなく我を視るとは、危うく喰い殺していた。陽春はよく飽きもせず付き従っていたものよ』
水龍の態度に違和感を覚えた。
あの女と呼んでいる時と比べ、小娘と呼んでいる時は明らかに不愉快そうにしている。
まるで別の人間を指しているかのようだ。
「……陽春は榊家と何か関係があるのか?」
『他の地の歴史を深くは知らぬが、陽春と契約した我の記憶によると奴の一族は長らく今の榊家の先祖に仕えていた。そして、奴は当時の榊家の長を殺めている』
「榊家は陽春にとって主なんじゃなかったのか」
『主だったのだろうよ。だから惚れた女も手放した。だが、女は死に奴は主をも手にかけ、命と引き換えに魂の番人となった。あれが想っているのは、常にあの小娘の中に残る女の魂のみ。我は堕ち本来の役目すらも忘れてしまったというのに、あの男の熱情は千年近く経とうと変わりはしない。故に我が贄の魂を欲すれば、躊躇なく贄の魂を導き差し出した。だが贄にあの女の魂を欲すれば、契約を違え己が魂が傷つこうと奴は刀を下ろそうとはしない』
……そういうことか。
ひよりの中には陽春が想っている女の魂が宿っていて、彼女は生前榊家の当主と関わりがあり、なんらかの理由で命を落とした。
それも恐らく榊家が絡んでいるはず。
でなければ、陽春が当主に手を下す理由もなければ、榊家が頑なに歴史を隠そうとする意味もない。
「ひよりさんは陽春を愛してる。どうにか彼を助けることはできないか」
巧が真剣に問うと、水龍は大口を開けて笑い始めた。
『はっはっはっ! よもや、その恋慕が本当に小娘のものだと? 実に滑稽だ。傀儡が実態のない霊に惚れるとは』
この台詞で先程の違和感の正体に気づいた。
ひよりという一人の人間が軽視されていることに、鳥肌が立つほどの怒りが込み上げてくる。
「彼女は傀儡じゃない! 一人の人間だ!」
『いいや、ただの傀儡だよ。あの女の魂が宿っていなければ、陽春の目に留まることすらなかっただろう。その陽春に利用されていたとも知らずに、哀れよな』
「利用だと?」
『奴が小娘に敬愛の念を抱かせたのは、今の状況を作り出すためだろうよ。陽春はあの女の魂が我と縁で結ばれた時、いずれは我に連れて行かれることを悟った。だから奴は我に取引を持ちかけたのだ。来る日までに小娘を懐柔する。そうすれば、姿を消した自身のために必ず動くはずだと踏んだのだろう。狙いどおり、小娘は今も我に縛られた魂の解放を着々と進めている。それが陽春のためだと思い込んでな。奴を救う方法などはない。魂を解放し終えれば我はこの地から去る。さすれば奴と我の契りも消滅し、奴の魂も還るだろう。……時間の経過と共に徐々に還ってはいたようだが、全く執念深い男よ』
嘲笑うかのような口調は巧の苛立ちを助長させた。
その苛立ちが頂点に達した時、大きな舌打ちが静かな空間を貫く。
「ちっ……元神だかなんだか知らねぇが、引きこもりがごちゃごちゃうるせぇんだよ」
水龍の動揺が空間の揺れとなって伝わった。
「てめぇの仮説が本当なら、榊ひよりの感情は別の人間のもんだってことだろうが。少なくとも、俺が見た榊ひよりは自分の感情で陽春を愛してたし、陽春は榊ひよりを想って苦しんでた。そこに他の女がいようがいまいが、あの二人の想いに嘘偽りなんかねぇんだよ。てめぇはそこで何百年もの間、一体何を見てきてんだ、あぁ? 人間勉強し直せこのクソ蛇野郎!」
今度は巧の怒号が空間を揺るがす。
水龍はしばらく無言だった。
怒るわけでもなく、ただじっと巧を見つめている。
それから、何を思ったのか静かに口を開いた。
『ならば人間の貴様に問おう。……なぜマキは……』
そこまで言ってから、途端に口を噤む。
『ーー忘れろ。我も先の暴言は聞かなかったことにする。だが、二度と知った口を利くな。我と人間では感性も異なる』
僅かに悲しそうな表情をしたように見えた。
しかし直ぐに威嚇するかのように鼻先の皺を深め、厳しい口調で嗜めた。
『そろそろ頃合いだ。続きはあの小娘を無事に連れて来られたら話してやる。ーー鈴を鳴らせ』
興味が失せたかのように、水龍は巧に背を向けて消えて行った。
残された巧は言われた通り土鈴を鳴らす。
すると、空間が後ろへ吹っ飛んだかと思えば景色は森の中に変わっていた。
こうしてひよりと合流し、今に至る。
ひよりを傀儡だと言われ激昂したくせに、やっていることはこれだ。
情けない。
葵ならどうしただろうか。
これ幸いと、ひよりとの心の距離を縮めに行っていたかもしれない。
なにせあいつは自分の感情を自覚できない上に、自分の価値を曲解している。
ようはバカだ。
あの特殊な体質でなければ、女に何度刺殺されているかわからん。
……だがそれでも、少なくとも今の俺よりは彼女の心に寄り添えたに違いない。
こんな、彼女に直接別れも告げられない宙ぶらりんな男に寄り添われても、鞍替えしたと思われて幻滅されるだけだろう。
もし生きて帰れたなら、今度こそ目を見て話をしよう。
ちゃんと、愛していたと伝えよう。
ひよりを利用したからには、せめて七海にひよりのような思いはさせたくない。
決意を胸に前を見据えると、小さな白い綿のようなものが目の前を落ちていった。
見上げると、ちらほらと同じようなものが降り始めている。
雪、か?
寒さも冷たさも感じないが、形状は雪そのものだった。
前を歩くひよりもそれに気づいたのか、空を見上げている。
隠し神の領域内での豪雪と大雨はここ毎年頻発している。
それは水神だった隠し神が起こしている天災だと葵は言っていたが、なんのためにそんなことをしていたのだろうか。
贄を与えられなかった怒り?
そうだとすれば、今降っているこれもただ単に怒りが形になっているだけなのか?
「巧さん!!」
ひよりの叫び声にはっと顔を上げた。
ひよりの視線の先には川がある。
そして、その川からは異形の女たちが次々と這い出していた。
その多くの女が濡れ髪に白装束を纏っており、肌はドロドロに爛れている。
そこまで視界に収めるまで約二秒。
気づいた時にはひよりの手首を取って走り出していた。
そして走りながらに悟る。
この雪は単純に怒りで降ってるわけじゃない。
ひよりを、領域内どこまでも探すためのものだ。




