嫉妬
巧と二人で崖を降り、滝に背を向ける。
川からは無数の手が手招きしているのが視えていた。
ほとんどが女や子供の手である。
巧にもそれが視えていたのか、彼は私の手首を握って、
「しばらく目を閉じていてください。俺が引きますから」
そう言ってくれた。
「……ありがとうございます」
しかしこれは、私がしっかりと視て受け入れなけばならないモノだ。
目を閉じることはしなかったが、手首から伝わる巧の手の感覚に救われるような思いがした。
私はここにいる。
ここにいてもいいのだ。
そう言い聞かせることができた。
滝から離れるにつれ、周囲の様子に変わりはないものの、気配は異様なものに包まれていった。
次第に今すぐにでも、村へ戻らなければならないような気がする。
無数の手から、この先に進むことを咎められているようで、次第に吐き気を伴うほどの酷い罪悪感に苛まれた。
ーーお前だけがここから逃げた。
ーー大切な家族も故郷も、役目からさえも逃げて、お前は自分だけが幸せになれる道を選んだ。
ーー役目を果たした者たちは、今も変わらず囚われているというのに。
「……うっ……ぐっ」
恨み言が頭に直接響く度、私の中で何かが慟哭する。
片手で口元を押さえて、込み上げてくる吐き気と声を必死に耐えた。
「ひよりさん?」
異変に気づいた巧が振り返る。
それからぎょっとしたような顔をして直ぐに立ち止まった。
「気分が悪いですか?」
この異様な気配を感じることはおろか、声も聞こえてはいないらしい。
「よく、わからないんですが……苦しい、です……」
自分の感情なのに、どうしてこんなに苦しいのかわからなかった。
進まなければならないのに、心がそれを拒否する。
ふきの顔が目に焼き付いて離れなかった。
「……落ち着いて、俺の目を見てください」
巧は静かにそう言うと、私の顔を両手で上に向かせた。
彼の瞳が見える。
こんな状況なのに、一切不安な様子を見せることはない。
思わず顔を背けてしまいたくなったが、彼の両手がそれを許さなかった。
「あなたは何も間違っていません」
そのたった一言が、私の頭に鳴り響く声を掻き消す。
「あなたが生きることを選択して、一生懸命もがいたから今のひよりさんがここにいる。だから、何も間違っていません」
巧の言葉は私ではない誰かに対しての言葉のように聞こえた。
それに応えるため、再び私の口が勝手に言葉を紡ぎ出す。
「……私はたった一人の家族を見捨てて、自分だけ村から逃げることを選んでしまいました。あの方との時間を欲したせいで、あの方は血に染まらなけばならなくなった。全て私のせいです」
私の口調の豹変ぶりに混乱するかと思ったが、彼から臆する様子は微塵も見られない。
むしろ、何か確信を得たかのようだった。
「彼もあなたと生きることを望んでいたと思います。どれだけ血で汚れたとしても、あなたと村を出たことを後悔したことなんてないはずです。欲のない人間なんているはずがない。生きたいと願って、何が悪いんだ。あなたが今すべきことは後悔じゃなくて、選んだことに対する責任を果たすことです。ーー第一、これは榊ひよりの人生だ。あなたの後悔なんて必要ない」
必要ないと吐き捨てられた言葉が、胸の中で渦巻いていた罪悪感を打ち消す。
……今のこの子があることが選択の結果であるのなら。
そんな思いと共に、吐き気も引いていく。
「……良くなりました」
訳がわからないが、とりあえずありのままそう伝えると巧は安心したように両手を離した。
苦しい、としか伝えなかったのに、なぜ彼は的確に私を鎮める言葉を口にできたのだろうか。
時折私の身体を勝手に使って話す彼女を、知っているかのようにも見えた。
「水龍から少し昔の話を聞きました。彼はこの土地で生まれた魂を、死後も守護することが使命だったそうです」
ーー使命。
かつて、先生もそう言った。
私を守ることは使命なのだと。
……やはり、そういうことか。
心の中でずっと拒絶していた予想が、ほぼ確信に変わってしまった。
私はこの街の出身ではない。
生まれたのは両親の駆け落ち先の地方だった。
しかしそれは、榊ひよりという私の人生だ。
私の中にいる彼女ーーみよりの存在こそ、隠し神が狙っている理由であり、先生が生前愛した人。
先生はずっと、私とみよりを重ねていたのだろうか。
あの優しさは、もう二度と逢えない彼女と私が瓜二つだったから?
思わず拳を握りしめた。
私の中にいる彼女が恨めしい。
私という存在が、彼女の人生の上にしか成り立てないことが堪らなく悔しかった。
先生の恋情や忠義はこの女のものであり、私は一生かかっても手にできない。
先生が見ていたのは、最初から私ではなかった。
「ひよりさん」
嗜めるかのような厳しい声が降ってくる。
そんな厳しい目を向けなくても、わかっている。
「進みましょう」
私は奥歯を噛み締めて前へと踏み出した。
わかっているのだ。
これまでの先生の愛情は確かに本物だった。
ただ、その愛情が純粋に私だけに向けられていなかったことが耐え難いだけ。
これを、嫉妬と呼ぶのだろう。
死者を好きになって死者に嫉妬している生者の自分が、惨めで虚しかった。
先生が私に時折見せたあの苦痛に耐えるかのような顔は、きっと罪悪感に苛まれていたからだろう。
自分を汚いと断言していたのは、私とみよりを重ねていたことを認めていたからだ。
ーーひよりちゃんは奴が好きなの? やめときな。それは人でなしの恋だから。
葵の言葉が蘇る。
まるで、こうなることがわかっていたかのような言葉。
「俺がここにいる理由は、榊ひよりのためです」
と、後から私に追いついた巧が釘を刺すようにこう言った。
その存在や言葉は、残酷にも私をこの世に繋ぎ止めて離さない。
「わかっています。……だから、進むんです」
どうしても礼の言葉が出てこない。
代わりに感情の渦がこもった水滴が、音もなく頬を伝っていった。
今歩いているのは、先生と私が決別するための道だ。
そして、先生とみよりと友人たちを救うための道だ。
この道の先に先生が愛している私の未来がある。
それは私が拒絶し続けた未来でもあった。




