懐古
家に帰ると、巧は買ってきたものを冷蔵庫に素早く入れて「後はお願いします」とだけ言ってそのまま二階の自室に籠ってしまった。
会議の時間が迫っていたのかもしれない。
私は腕まくりをし、早速ミートソース作りを始める。
母曰く、早いうちから煮込んでおいた方が味に深みが出るらしい。
特別な日の朝はいつもより張り切って作っていた。
やはり父の好物だったのだろう。
でなければ、あんな少女のような顔で料理をしたりしない。
いつも怒鳴り合いの喧嘩をしていたのに、その日だけはなぜか三人で食卓を囲んで談笑しながら食事をしていたように思う。
今となってはどんな会話をしたかなど覚えてはいないが、私にとって唯一穏やかな家庭の思い出だ。
ある程度成長してからは父には他に女がいると知ってしまったため、どれだけ取り繕われても全てが偽物に見えて心を開く気にはなれなかった。
父は母や私がそのことを知っているとは思わなかったのか、毎年変わらず訪れていた。
きっと、可愛げのない娘だと思われていただろう。
その日、というのが一体どんな特別な日だったかはもう覚えていない。
私が中学生になる頃にはなくなっていた。
母の精神が不安定になり家事も仕事もできなくなると、ミートソーススパゲッティが食卓に出ることもなくなった。
下校時に近所のスーパーへ寄って、買い物をしてから帰って掃除や洗濯をして食事の支度をする。
それが私の中学時代の日課だった。
思えば、叔父はその頃から我が家の経済を支えてくれていたのかもしれない。
タマネギを微塵切りにして、ひき肉と一緒に軽く炒める。
タマネギが透明になってきたら、ケチャップとトマトジュースとローレルの葉を入れて、時折かき混ぜながらとろみが出るまで煮込む。
最後にコンソメ、醤油、砂糖、ニンニクで味をまとめる。
確か母が作ってくれたものは少し甘めだったような気がする。
味見をしながらなんとか当時の味に寄せた。
「こんなもんか」
呟きながら、巧はまだ会議中だろうかと天井を見上げる。
……今部屋に近づいたら、うっかり機密情報を聞いてしまうかもしれない。
そういえば、巧からトレーナーを借りたままだった。
トレーナーは二階にある私の部屋に置いてある。
洗って返さなければ。
これは決して盗み聞きではない。
なるべく足音を殺して二階へと上がって立ちどまる。
が、巧の部屋から声が聞こえてくることはなかった。
部屋の中から気配はしているものの、巧の声も会議しているような声も聞こえて来ない。
かと思えば、
「……通信が途絶えたということは、葵と柳原さんも何かに巻き込まれてる可能性があるということでは」
と、緊迫した巧の声が聞こえてくる。
まさか葵たちになにかあったのだろうか。
「友膳警部、俺も今からそちらへ向かいます」
巧の言葉に対しての返答は聞こえて来ない。
どうやらイヤホンか何かで会話しているらしい。
「……わかりました」
声色からして待機を命じられたようだ。
理由はきっと私のせい。
私の護衛をしているせいで、巧は自由に捜査ができないのだ。
なんだか足を引っ張ってしまっているような気がする。
私が黙って葵の元へ行きそれを巧が追った結果現場に向かってしまっていた、ということにすれば命令無視にはならないのではないのでは。
そんな考えが頭を過ったが、狙われている私が現場に行けば更に事態が悪化する可能性もある。
……今できることは、ここで大人しく待つことくらいだ。
肩を落としながら自分の部屋から洗濯物を持って出ると、ちょうど部屋から出てきた巧と鉢合わせた。
「会議は終わりましたか」
「はい、早めに終わりました」
「葵さんたちに何かあったんですね」
巧は気まずそうに一瞬目を逸らす。
「まだそうと決まったわけじゃありません」
三年前、葵は突然姿を消した。
今回もまたそうなのかもしれないと誰よりも懸念しているのは巧自身だろう。
もし葵たちを神隠すのが狙いだったのなら。
葵はそれをわかっていて巧に私を任せて現場に向かったのかもしれない。
なぜ彼はそうまでして私を救おうとしているのだろう。
「大丈夫、現場には友膳警部の部下が複数人配置されているので、何かあったとしても柔軟に対処できるはずです。三人とも直ぐに戻りますよ。それより、遠藤真希の情報を共有したいんですが時間ありますか」
巧は葵が帰ってくると信じている。
……そうだ、私たちにできることは葵たちが無事に帰ってくることを信じて待つこと。
そして戻ってきたら、必ずマキちゃんを見つけだす。
そのためにも当時のマキちゃんの情報は必要だ。
私は首を縦に振った。
「洗濯してからでもいいですか」
手に持ったままの洗濯物をひとまず洗濯機に突っ込もうと思った。
洗濯物の中には巧のトレーナーもある。
「ああ、いいですよそのままで。妹もよく勝手に寝巻きにしてたんで」
と、自分のトレーナーを私から取ろうとする巧の手を思わず避ける。
空を掻いた手がそのまま宙ぶらりんになった。
「……なんか、嫌です」
自分が着たものを、しかも汗をかいていたのにそのままそれを巧に着られるかもしれないと思うと気恥ずかしかった。
それを察したのか巧は「あっ」と短く声を上げて、
「すみませんでした」
耳まで真っ赤にして謝罪した。
たまにこういう素で女心に疎いところを見せられるので困る。
こちらまで顔が熱い。
「先にリビングに行ってます」
巧は気まずそうに階段を降りて行った。
彼は女性に対してあまり耐性があるように見えない。
一見仏頂面で普段の身のこなし方も相まって冷淡なように見えるが、こと恋愛に関してはかなりの奥手なようだ。
教育者である彼女さんの苦労が伺える。
そんなことを呑気に思いながら洗面所にある洗濯機に洗濯物を入れた。




