目覚め
R指定表現あり
『あんた、ほんっとにバカ。なんで止めてやってんのにわざわざ危険な方に進んで行こうとするわけ。異界のもん食うなっつってんのに食うし、あたしと同じ顔した化け物とあたしの区別もつかない。それであたしの代わりに警察官になるだあ? 百年早いわ!』
怒涛の正論の捲し立て。
これは生前もよくされていた。
気が弱い母よりも姉から怒鳴られたことの方が多いくらいである。
喧嘩になれば容赦なく手も足も出た。
しかし大抵、力と口では千華には勝てない。
そんなふうに育った真壁は結果、
「すみません、ごめんなさい!!」
このように直ぐに謝る癖がついてしまった。
姉が死して十年以上経つというのに未だ反射的にこの癖が出るところからして、彼女の正論責めは真壁の人格形成にかなりの影響を与えたようである。
ーーコロン。
と、何かが転がる音がした。
『……あー、もう行かなきゃ』
その音を聞いた千華は後頭部を掻きながら真壁に背を向けた。
「あ、え!? 待って!! 千華、私ちゃんと話したいことが!!」
『時間ないの。詳しい話は外にいるあの性悪男に聞いて』
真壁は千華を追いかける。
が、一向に近づく気配がなかった。
『あ、そうだ。もう頭痛も起きることないから安心しなよ』
「それって、もう会えないってこと?」
千華は真壁の問いに答えない代わりに、無言で片手を上げて見せた。
さようなら、そう告げているようだ。
「千華! 私……!」
話したいことはたくさんあるのに、なにを言うべきかわからない。
今更何度謝罪を繰り返したとしても、それは一方的なものであって千華の気持ちを無視しているのと同じだ。
だからーー
「ありがとう!!」
声を張り上げて叫んだ。
それを聞いた千華は立ち止まる。
「不出来な私をいつも守ってくれてありがとう!!」
涙のせいで千華の姿が霞む。
必死に袖で拭い、姉の最期の姿を鮮明に記憶しようとした。
「千華が、私の姉でよかった……!!」
千華の肩が小刻みに揺れていた。
それから天を仰ぎ一つ大きなため息をつく。
『一つ、いいこと教えあげる』
悪戯を思いついた時のような無邪気な声だった。
『あたしも、あんたの姉でよかった』
振り返った千華は涙を流しながらにっと歯を見せて笑っていた。
向こう側が徐々に明るくなる。
刀を携えた長身の男が光から現れた。
顔は逆光でよく見えない。
男が近づく度、何かが転がるような音がしていた。
『あんたはあんたらしい警察官になんなよ。あたしじゃなれないような、さ』
その言葉を最後に千華の顔も見えなくなった。
眩しさのあまり腕を顔前に出して影をつくり目を細める。
光が弱まると、手に冷たい何かが触れた。
目を開いて腕を下ろすと、そこは雪が降りしきる白い世界だった。
「真壁さん!」
呼ばれて振り返ると、信じられないというような顔をした柳原と静かに怒りを滲ませている葵がいる。
戻ってきた。
真壁はその場にへなへなと座り込んだ。
ーーーーー
目の怪異は取り込んだ人間の心を読み、その人間が渇望する甘い夢を見せる。
そしてそれを現実と錯覚させ最後には魂を閉じ込めるのだ。
昔の人間はこれに形と名前を与え、サトリと呼んだりもした。
彼女はもう戻らないだろう。
真壁が怪異に巻き込まれたと聞いた時、葵はそう思った。
大切な人を亡くした人間ほど逃れられない。
いくら真壁千華が守っていたとしても、真壁自身がその甘い夢を拒絶しなければどうすることもできないはずだ。
柳原と葵はしばらく無言で立ち尽くしていた。
「巧くんに連絡するか?」
無言に耐えかねた柳原が頭を抱えて問いかけた。
「お前のバディが死んだって?」
「まだわからんだろうが。異界と現世を繋げるのは縁だ。現世で彼女と縁を結んだ人間をここに寄せ集めれば或いはーー」
「まあ、無理だね。何人寄せ集めたところで彼女の中で縁が最も強く結ばれてるのは亡くなった姉だ。怪異もそれを見てるはず」
真壁千華の妹に対する語気は強かったが、力はそれほど残ってはいなかった。
一緒に異界に取り込まれたなら、呪いが葵へ届くこともないだろう。
「なら、どうしてここから離れない」
「弔ってんの」
「へえ。あとどれくらい弔う予定?」
「巧とひよりちゃんに良い言い訳思いつくまで」
「それなら、真壁さんが全部友膳警部のせいにしてくれって言ってたぞ。やっぱりお前から離れないように言われてたみたいだな」
本当に榊家を探るためだけに真壁をつかせたのだろうか。
榊家を探ればただでは済まない。
それを理解していて自分ではなく駒として真壁を使った、というわけか?
だとすれば気分よく全てを友膳の責任にして、これからの関係性を悪化させることもできるが。
「僕はこのまま小学校まで行ってくる。おじさんはもう帰っていいよ」
「そういうわけいかないだろうが。巧くんに連絡すれば間違いなく他の警察も動き出す。その場にいた私とお前は重要参考人だ」
そうなったら遠藤真希探しどころではなくなる。
やはり真壁を連れ戻す方法を探す方が合理的か。
考え直したところで、遠くの方から何かが転がる音がした。
ーーコロン。コロン。
と、どこからともなく聞こえてくる。
葵は顔を顰めた。
……恩義せがましい。
心の中で悪態をつく。
すると、突然自分の身体が重くなったように感じた。
ズンっと、地面に向かって全身の血が下がったような感覚。
心臓が大きく脈打つ。
思わず胸を押さえて舌打ちした。
この感覚もこの重みも知っている。
これは縁を繋げられた時の感覚。
そしてこの重みは縁そのものの重みだ。
「どうした?」
「……縁を無理矢理繋げられた」
「は? 誰に?」
「そんなことできるの、神との縁がある人間しかいない。真壁千華だよ」
なるほど、確かにこれは呪いだ。
真壁千華は妹のために自身の全てを投げ打って葵と真壁紗良の縁を繋げたのだ。
しかし彼女だけの力でこんな呪いが届くはずがない。
できるとすれば、かつて命と引き換えに神との縁を得た亡霊くらいだ。
「あいつマジで消す。絶対消す」
「何がどうなってるんだ。この転がる音は?」
「あいつが後生大事にしてる鈴の音。それで異界と現世を繋げて真壁千華の呪いを僕に飛ばした。身体くっそ重い」
「鈴? あの、伝承に出てくる神物の対の鈴のことか?」
かつて神物とされた対の鈴の存在は、榊家の伝承にしっかりと書き残されていた。
神と人との縁の証。
それは祠を建てた一族が神から賜ったものとされている。
しかしその一族が皆殺しに遭った後、鈴の存在はどこにも書き記されてはいなかった。
「あー、確かに対になってたかも」
「待て、それ私の研究にめちゃくちゃ有用な情報なんだが! なんでもっと早く教えてくれない!! というかなんで陽春がその鈴を持ってるんだ!!」
「知らないってば。それよりちょっとは僕の心配しな?」
興奮したように鼻息を荒くさせ対の鈴について思いを馳せ始めた柳原の耳には、もう何も届きはしない。
息をついて前方に視線をやると、いつからいたのかスーツ姿の女がこちらに背を向けて呆然と立ち尽くしていた。
……本当に帰ってきた。
葵は息を飲んだ。
そして、ふつふつと怒りが込み上げてくる。
「真壁さん!」
同じく気づいた柳原が声を上げた。
彼女はこちらを振り返ると、腰を抜かしたようにその場に座り込んでしまった。
その様子を、葵は努めて冷静に細目で眺めていた。
さすがに無傷で帰って来られるわけないか。
真壁と異界との縁が結びついている。
黄泉竈食でもしたのか、真壁から微かになんとも言えない嫌な臭いがしていた。
この臭いから想像できるのは、腐乱死体。
嗅ぎ続けるだけでこちらまで腐りそうな臭いだ。
このままでは彼女もひよりと同じく怪異に呼ばれ、また閉じ込められるだろう。
……全く、この体質で得したことなど一度もない。
葵はまた軽く舌打ちをして真壁に近寄った。
膝をついて、項垂れている真壁の顎を乱暴に持ち上げ視線を合わせる。
「異界のもの、食べたな?」
「あ、シチューをちょっと舐めて……でも直ぐ吐き出したので……!」
「目閉じて口開けてろ」
「へ?」
「早く!」
「ひっ、すみません」
真壁は顔を青くして、言われた通り目を閉じて口を開けた。
「我慢して、十秒くらい心の中で数えてな」
そう言うと、葵は自分の口を真壁の口に重ねた。
「……ん、ふ……!?」
熱くねっとりとした感触が舌に伝わったかと思えば、それは真壁の歯列をなぞったり舌に絡みつく。
理解が追いつかない頭で、真壁は必死にそれから逃れようと抵抗していた。
「や……!」
「逃げるな」
嫌がる真壁の顎を無理矢理掴み、地面に押し倒して舌を絡める。
真壁はそれでも必死に葵の胸板を押し返していたが、だんだんと抵抗する力が弱くなっていった。
二人の混ざり合った唾液が真壁の喉を伝っていく。
十秒後。
葵はようやく真壁から離れた。
乱れた呼吸、上気した頬、熱を孕んだ瞳。
執拗に口付けされた真壁は目だけで殺すような殺気を纏わせていた。
「殴りたければ殴れば」
「遠慮なく」
真壁は上半身を起こすと、葵の左頬を容赦なく平手打ちした。
「ま、真壁さん。私は何も見てないですがね、あれは一種の魔除けのための行為であって……」
柳原が必死に目を覆いつつ弁解しようとしているが、台詞が胡散臭すぎて全く説得力がない。
「ああしないと、君死んでたよ。黄泉竈食して戻って来られたこと自体奇跡みたいなもんだから」
「だとしても……だとしても……!!」
耳まで真っ赤にして今にも泣き出しそうな声を出す。
微かに身体が震えていた。
「乱暴にしてごめん。帰って来てくれてよかったよ」
葵は真壁の乱れた髪を優しく耳に掛けて、流れた涙を親指で拭った。
「僕は小学校に行って来る。二人とも帰っていいよ」
立ち上がり柳原に向けてそう言うと、葵は一人で先へと進みだした。
置き去りにされた二人は気まずさのあまりしばらく無言だったが、
「帰りましょうか」
柳原が言葉をかけるとようやく真壁は立ち上がった。
「先ほどのことは墓まで持って行ってください。私も忘れますから」
「御意」
「私は署に戻ります」
「承知致しました」
柳原は静かな殺気を纏わせる真壁に怯えながら下山することとなった。




