嘘も誠のように
「そろそろ来る頃かと思ってミートソーススパゲティ作っといたよ。好きでしょ?」
にこにこと笑いかけながらソースが入った鍋をかき混ぜる。
悔しいことにその温かい笑顔や緩い口調、品のいい所作の一切から違和感は微塵も感じなかった。
葵はもう一度息をついて、女性の顔に手を伸ばす。
「……どうしたらそんなところにケチャップつけられんだよ」
柔らかい彼女の頬についたケチャップを親指で拭ってやれば、「嘘、ついてた?」と楽しそうにまた笑う。
「それにしても葵が高校生かあ。あんなちっちゃくて可愛かったのに、今じゃ背だって私より高いもんね。もう明日香ねぇねって呼んでくれないし」
玄関の鏡に映った自身の服装が学ランに変わっていることに気づいた。
どうやら高校入学直前の誕生日ということになっているらしい。
それにしても、と室内を見渡す。
高校生の頃、誕生日だけ足を踏み入れることが許されたこの場所。
改めて見せつけられると、至る箇所から老朽してる様子が伺える。
「なんで親父にもう少しまともな部屋探してくれって言わないの」
「えー? またそれ? いいんだって。ここに住まわせてくれるだけで充分」
「俺家出るから、一緒に住む? 明日香のことそのまま養ってあげてもいいよ」
「こら、呼び捨てにすんな。この生意気なクソガキめぇ!」
と、頬を膨らませながらデコピンを食らわされる。
「全く。そうやって叔母さんに気ぃ遣って生きてたんじゃ、いつまで経っても彼女できないぞー。こんな誕生日会だって別に来たくなきゃ無理して来なくたって……」
「嬉しかったよ。俺の誕生日なんて心の底から祝ってくれるような親戚はいないし、好物知ってる家族も明日香しかいなかった」
葵は言葉を遮り、明日香の華奢な背を包み込むように抱き締めた。
「ちょ、葵!」
「だから俺の人生かけてでも、明日香の居場所も明日香の笑顔も全部守りたかった。それなのに何も言わずにいなくなるなんてさ。ーー明日香も俺が叔父さん殺したと思って逃げたの?」
「あ、葵……? 何言って……!」
葵の大きな手が明日香の細い首にかかる。
恐怖で青くなった顔が振り返り、葵を見上げた。
「わかんないか、偽物だもんね」
葵はその顔に笑いかけると、首を掴んだまま背後の壁に明日香の身体を押し当てた。
「っ……や……が……!」
葵の両手の中で明日香の温かい喉が必死に酸素を求めて上下に震えている。
涙で潤んだ瞳は混乱しつつもしっかりと葵を捉えていた。
「よりによって彼女に化けるなんて怪異の分際で烏滸がましいんだよ」
最後に小さく喉が震えたかと思うと、葵の手を引き離そうともがいていた手が力無く垂れ下がった。
それを確認して葵は震える両手を離す。
明日香の身体は光を失った瞳と共に倒れ込んだ。
……気分わっる。
苦虫を噛み潰したような顔で両手をぶらぶらと振りながら明日香の遺体を見下ろした。
もしかしたら本物の彼女もどこかでこんなふうに一人で冷たくなっているのかもしれない。
そんな考えが頭に過ぎり脱力した。
空間は依然なんの変化もなかった。
未だ異界から出られないとなると、本体は別にいるということだ。
ーーギィ。
と、直ぐそばで床が軋む音がする。
視線を向けると、部屋の出入り口から少女がこちらを見つめていた。
その瞳は遺体となった明日香と同じく光がない。
むしろ更に深い闇を抱えているように見え、明日香の姿よりも強く葵の心臓を鷲掴みにする。
責めるわけでも泣くでもなく、ただ立ち尽くして葵を無言で見上げていた。
「ひより、ちゃん?」
消さなければならないのに身体が動かない。
ひよりはゆっくりと葵に人差し指を向けた。
「人殺し」
そう言い放たれた途端、景色が元の風景に戻る。
気づけば心臓が痛いほど早く脈を打ちつけていた。
嫌な汗が背中に流れる。
「葵!」
背後から柳原の声がした。
いつもこの声が現世に戻ったことを自覚させてくれる。
服装も学ランから私服に変わっていた。
おかしい。
本体は消していないのになぜ異界から出られた?
いや、もしかして追い出されたのか?
疑問を抱きながら柳原の方を向くと、なぜかそこに真壁の姿がなかった。
「真壁さんが境界を超えた。すまん、止めたんだがどうにもできなかったーー」
柳原の言葉が葵の耳をすり抜けていく。
辺りに漂っていた異界独特の異様な雰囲気はもうどこにもない。
元来た道を戻れば、山の外周を行く道に戻れるだろう。
この場に残ったのは柳原と葵、そして頭上に薄らと雪が積もった塞ノ神だけであった。




