目境
「慣れてるんですね」
柳原の道案内で横道に入りながら、真壁はそんなことを言った。
「仕事柄、異界に飛び込むことが多いもんで。ただ知識はほとんど学生の頃におじさんから教わった」
「えっ? でも柳原さん視えないんですよね?」
「私には視えなくとも、視える人間が遺した知識は受け継げるんですよ。榊家は代々能力者が多かったからかそういう記録の宝庫でね、私は全てに目を通してる」
なぜ記録にあったようなことが起きたのか、どのようにして解決されたのか、或いはどうしたら解決できたのか。
柳原は榊家の記録の謎を全て解き明かすために民俗学者という道を選んだ。
と、本人は表向きそう言ってはいるが、本当のところはただ単に好きな仕事しかしたくないのだと葵には語っていた。
元々は親の意向で高校卒業後に榊家の息がかかっているところへ就職する予定だったようだが、それを蹴って記録の管理者に名乗り出た。
そして堂々と学費と生活費を出資させ、仕事もせずに資料庫と図書館に引きこもって民俗学者という好きな仕事を手に入れたのである。
「私は会社の中の歯車には向いてないからな。お前のところの家は上手く利用させてもらったよ」
それを榊家の一人息子ーー当時進路に悩む高校三年生ーーに笑顔で語るところからして、確かに社会人向きの人間とは思えなかった。
だが現にこの男は本当に上手く榊家を利用して、葵の教育者という立場を与えられるまで義彦の信用を獲得している。
そして葵自身も見事にこの男を誰よりも信頼してしまっているのだ。
一歩間違えば、詐欺師にでもなっていたかもしれない。
「榊家の情報は今じゃ大まかな歴史以外、親父かおじさんしか触れられない。だから君があの神社について調べた時なにも情報が得られなかったって聞いて、うち関連だって確信した」
「じゃあ、もしかして私が町史編纂者に情報を聞いても教えてもらえなかったのって……」
「町史編纂委員会会員の中におじさんの名前入ってると思うよ」
葵が柳原に親指を向けると、柳原はにこにこ笑顔でピースした。
「情報開示は義彦さんに許可が必要だからな。今回はひよりさんが絡んでるから特別に協力して来いと言われてる」
「榊家の人が絡んでないと榊家の情報は原則開示されないってことですか?」
「いやいや、榊家でも重要な人間とそうでない人間いるから。そうでない人間が絡んだら容赦なく切り捨てるだろうな」
「親戚の中でも派閥がいろいろあるからね」
「なんでそこまでして隠そうとするんです?」
「榊家の先祖は碌でもないから、いろんな場所や人間や神と縁が結ばれてるんですよ。それを利用しようとするとまた新たな縁が繋がって、思いもよらない怪異が発生する可能性がある」
「そうなると僕の仕事もどんどん増えるってわけ」
真壁はなにかに気づいたのか、携帯を取り出して確認し始めた。
「異界の中じゃ電波通じないよ」
「……葵さんが三年間行方不明だったのは、もしかして異界にいたからですか」
やっぱり、それが聞きたかったのか。
どうりで昨日の記憶がないにも関わらずあからさまについてくるわけだ。
あまりのわかりやすさに葵は思わず苦笑した。
表向きでは電波の通じない田舎に飛ばされて仕事をしていたことになってはいるが、警察内部では行方不明扱いで秘密裏に探られていた、という話を聞いたのは帰ってから直ぐのことであった。
確かに要注意人物が突然姿を眩ませば不審に思うのも無理はないし、その三年の間何をしていたのか気になるのも当然だ。
しかしその情報は真壁自身が知りたいと思っているわけではないのだろう。
本当に知りたがっている人間が別にいる。
真壁を葵に張り付かせ、監視を命じている誰かさんが。
「それについては縁の問題があるからノーコメント。ただ、記録について知りたがる人間の中には意図的に怪異を起こそうとしてるやつもいる、とだけ教えておくよ」
「それじゃ、三年前の怪異は意図的に仕組まれたことで葵さんは閉じ込められてたということですか? でもなんでそんなこと……」
「まあ、なんにせよ我が主は帰還されたわけだ。それでいいだろう」
真壁の質問を遮って、柳原が無理矢理話を終わらせた。
管理者としてこれ以上は踏み込ませない、とでも言いたげである。
「友膳警部殿には『榊家は知ってのとおり敵が多いらしいから、今回のことに懲りたらこれ以上詮索するのはやめて他に労力を割いたほうが賢明だ』とでも知らせておきなよ」
そんなこと伝えたところで大人しく手を引くとも思えないが、お前が榊家を詮索してることは知っていると警告するには充分だろう。
「な、なんで友膳警部に? というか、今回のこともまさか意図的に仕組まれたってことですか!?」
「さあ、どうだろうね」
言いながら、柳原を横目で見る。
柳原は呑気に「異界の雪も冷たいんだな」などとわざとらしく雪に興味を向けていた。
降り頻る雪で視界が狭められる中、辺りの気配を探っているもののどこからも手を出してくる様子はない。
取り込むための『手』は尽きた、ということなのだろうか。
しかし異界から出られていない所からして、別の取り込むための場所に誘われている可能性が高い。
まるで蜘蛛のようだ。
安全な場所に巣を作り、長い長い年月をかけて人間を誘い取り込む。
神社だけではなくこれに引っかかった人間も、神隠し伝説の題材の一つとされているのだろう。
少し先の道端に膝丈ほどの石が置かれているのが見えてきた。
近づいてよく見ると、正面に男女の像が刻まれている。
「塞ノ神か」
塞ノ神、或いは道祖神。
旅の安全を祈願するためのものという意味合いの他に、外部からの災厄を防ぐ境界の神ともされている。
こんなところにこれがあるということは、ここが目境町との境界なのだろう。
「ここからは僕一人で行くよ」
二人が先に進んだ場合、柳原はともかく真壁は絶対に戻れないという確信があった。
怪異の目は心を覗き、口ほどにものを言う。
嘘も誠のように、誠も嘘のように。
姉を喪っている真壁にとって堪えられるものではないはずだ。
帰って来られたとしても、正気ではいられないだろう。
「待ってください。一人で行くなんて危険過ぎます。今度は三年では戻って来られないかもしれないんですよ」
「僕だけで行くって言ったのは、君たちがいたら足手纏いって意味。さっきの見てわからなかった? 」
「でも……!」
「警察官なら善良な一般市民のおじさんを守ってなよ。じゃ、あとよろしく」
柳原に目配せすると、柳原は「やれやれ」と大袈裟に首を振った。
「あ、ちょっと!!」
背中で制止する真壁の声を聞きながら、葵は一人で境界を跨ぐ。
その瞬間、空間が大きく揺らいだかと思うと先程までの景色が一変した。
目の前には銀色のドアノブがついた古めかしい扉が現れ、開かれるのを今か今かと待ち侘びている。
辺りを見渡せば、見覚えのある寂れた廊下。
いくつも同じような扉が並んでいるが、人の気配がするのは目の前の扉からだけだった。
何か料理でもしているのか芳しい匂いがしている。
炒めるような音と、機嫌の良さそうな鼻歌まで聞こえてきていた。
ーーああ、目は本当に嫌いだ。
葵は息をついてドアノブに手をかけ、そっと回した。
「おっ。いらっしゃい、葵」
扉の向こうではエプロン姿の女性が頬にケチャップをつけながら、満面の笑みを浮かべていた。




