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縁-えにし-  作者: 狸塚ぼたん
四章
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情緒不安定


「巧さんは召し上がらないんですか?」


用意されたケーキとコーヒーを並べられ、巧の前にはケーキがないことに気づいて問う。


「甘い物が好きじゃないんです。よかったら俺の分も食べてください」


向かい側に腰掛けコーヒーを飲み、机に置いてある自身の携帯の画面を指で触れた。

二月十三日十四時三十三分。

通知三十件。

デフォルトの壁紙に本日の日付と連絡通知が表示されている。


巧は何食わぬ顔で携帯をポケットにしまった。


「明日はバレンタインですね」


ケーキを食べながらそう声を掛ければ、はっとしたように顔を上げる。


「そう、でしたね」


その反応はただ忘れていた、というだけのものではないように見えた。

まるで罪悪感に駆られているかのような。


私は気にせず続けた。


「甘い物が嫌いなら、苦労されたんじゃないですか。たくさん頂くでしょうから」


「社会人は義理ばかりなので。全部妹にやってました。ひよりさんは先生にあげたりしてたんですか?」


「ええ。夢の中でですけど」


「夢の中で料理ができるんですか」


「発砲もできたじゃないですか」


「……確かに」


昨夜の夢のことを思い出したらしい巧は、やけに真剣に頷いた。


「夢の中でこれは夢だと確信できる時だけ、記憶にあるものを具現化できるんです。先生にはチョコレートの記憶がないから、作ったところで意味はなかったんですけど。味も匂いも食感もしないはずなのに、先生はそれを食べて美味しいと言ってくれました。子どもでしたから、素直に嬉しかったのを覚えています。先生にとっては迷惑だったかもしれませんが」


私の言葉に、巧は即座に首を横に振った。


「いや。先生が美味しいと言ったのはチョコレートではなくて、ひよりさんが作ってくれた気持ちに対してです。あなたに作ってもらえたことが嬉しかったんですよ」



ーーあなたの作ったものを食せる日が来るとは思ってもいませんでした。

永く漂ってみるものですね。

いつの日かこれを私以外の大切だと思う誰かに作って差し上げなさい。

私にとってはそれが自分で食すより嬉しいことなのです。



初めて作ってあげたチョコレートを食べた時、先生はそう言った。

あの人はいつも私から離れる未来を見ていたように思う。

先生のいない未来で生きなければならないことを、私に納得させようとするような言葉ばかりを並べていた。

たとえ本心からの言葉であったとしても、私にとってはただただ苦しいだけだ。

到底、納得なんてできるわけがない。


ならせめてーー


「お別れはちゃんと言って欲しい」


落とした視線の先の左手のアザが霞んで揺らぐ。

喉から搾り出したかのような声は、自分でも驚くほどか細かった。

慌てて袖口で両目を覆い、感情を殺そうとした。

けれど、殺そうとすればするほど身体が小刻みに震え息がしづらくなる。

前まではこんなこと一度もなかったのに。


「ひより、さん?」


「……すみません、大丈夫です。先生の話、しただけでこんな取り乱すなんて……だから葵さんにあんなことを言われるんですよね」


葵は今でも私が先生を想って死を選ぶのではないかと懸念しているのだろう。

私自身も未だ絶対にない、とまでは言い切れない。

だから信じられないと言われてもその言葉を覆してやろうなどとは思わないのだが、それが私を助けようとしてくれている彼の気持ちに背いているようで少なからず心は痛む。

彼が私を助けようとしている理由に何らかのメリットを見出そうとしてしまうのは、その罪悪感から逃れたいからなのかもしれない。


息を深く吸って吐いてを繰り返し、呼吸を落ち着かせた。

すると、ぽん、と頭の上に何かが乗る。


「葵のあの言葉は気にしないでください。大切な人を失うかもしれないのに、冷静でいられる人間の方が不自然です」


両目から袖を離して見上げると、巧の腕が私の頭上へ伸びていた。

それを見て、頭の上に乗っているのが巧の手の平なのだとわかる。

その表情は緊張しているのが一目でわかるほど強張っていた。


「すみません、こういう時どうやって落ち着かせたらいいのかわからなくて」


「……彼女さんいるんですよね」


「彼女と親友の従妹とは対応が違いますから」


「どう違うんですか」


「それ以上は聞かないでもらえますか」


二十代後半の男の顔がみるみる赤くなっていくのが面白くて、いつの間にか心は落ち着いていた。

私の頭から手を離し、口元を覆っている。

……なんだか、もう少しからかいたくなってきた。


「彼女さんのことがお好きなんですね」


「ええ、まあ」


「どうして別れるんですか」


「大人の事情です」


「浮気ですか」


「違う!」


食い気味に否定して、そのまま黙ってしまった。


「あまりプライベートなことはお話されたくないんですね。私は巧さんを信頼していろんなことをお話しているつもりでしたが」


「そうやって人の心抉るの、榊家の人間の特技かなんかですか」


「抉っているつもりはありませんでした。すみません。ただ、別れるのであればそれ相応の理由とさようならは言うべきかと」


少なからず私は言ってもらいたい。

でなければいつまでも前に進めないではないか。


「彼女さん、きっと泣いてますね。彼のためにバレンタインのプレゼントを用意していたのに、彼の妹から人伝に浮気してると聞かされて……」


途端に、巧は頭を抱え込んでしまった。


「もうやめてください。あいつに嗤われながら言われるより心がやられる。ーーちゃんと、全部片付いたら話をします」


「結婚したい二十代の女性にとって三年はとても貴重なんだそうです。殴られる覚悟で話した方がいいかもしれませんね」


サクッとショートケーキの苺にフォークを突き刺す。

その様子を見て、巧が引き攣った笑みを浮かべた。


「……ひよりさん……いくつなんですか」


「葵さんと同じことを聞かないでください」


ケーキを再び食し始めたのを見て、巧は深く息をついた。

それから少し冷静になったのか、


「浮気のことだけでも弁明しといた方がいいか」


と呟き出す。


「ちょっと失礼します」


断って、携帯を取り出し文章を打ち込み始める。

私がケーキを食し終えてコーヒーを飲み干すまで、悩んでは打ち込むという作業を繰り返していた。


「よし」


どれだけの長文を送りつけたのだろうか。

皿を片付けて葵が買って来たであろう風邪薬を飲み終えた頃、ようやくそんな声が聞こえてきた。


「ご忠告、感謝します」


「いいえ」


「ついでに俺からもいいですか」


「なんでしょう」


「葵のことなんですが」


「仲良くしろと?」


「いえ、そうではなくて。俺から見て、葵はやり方や接し方に問題はあれど、ひよりさんのことを相当気にかけてるようでした。ひよりさんからはどう映りましたか」


問われて、これまでの葵の行動や言動を思い返す。


「従妹とはいえ必要以上に執着されてるように思います。かと思えば、今みたいに置いて行かれたり。葵さんの考えてることがわからなくて、少し怖い気もします」


率直に話すと、巧は私にどう伝えたらいいのか考え始めた。

それから悩みながらも口を開く。


「葵もひよりさんも、人に対しての愛情を知らないんじゃないですか」


考えていた割には失礼な物言いである。


「葵さんには当てはまらないような気がしますが」


社長の息子として、仕事とこんな一軒家まで与えてもらっている。

甘やかされて育てられたようにしか見えないが。


「俺も柳原さんに昔聞いたことがあるだけなので詳しいことはわかりませんが、あいつは榊家でかなり冷遇されてきたようで……加えてあの特異体質ですから、人との接し方がわからないのかもしれません」


「冷遇? そんな話、聞いたことありませんが」


彼は榊家の長男として能力を引き継いでいる。

冷遇される理由など皆目検討もつかない。

想像する限りで思いつくのは、昔からの名家でありがちな実は愛人の子どもであったとか、実子ではなく養子であったとか血縁関係くらいだ。

しかし実子ではないと言われても信じられないほど、葵と叔父は似ている。

叔父の秘書によると、叔父は馬鹿がつくほどの愛妻家らしいので叔母以外の女との子どもとも思えなかった。


「俺はあいつが親と一緒にいる姿を見たことがありません。親父さんから与えられてる仕事内容も、あいつを家から遠ざけようと仕向けてるようにしか見えない。それにーー」


そこまで言うと、巧は言い淀んだ。

口にしてしまってもいいものか、悩んでいるようである。


「葵さんのこと、教えて頂けませんか」


彼と対等でいるためには、彼のことをもっと知っておく必要があるのだ。

巧は決意したように頷き、口を開いた。


「葵は最近まで三年間、消息不明だったんです」


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