夜の夢こそまこと
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「あるべき場所へ帰りなさい」
先生にそう告げられると、朝日の光が次第に強くなった。
目を開けていることもままならない程の光を浴びた後、そっと目を開ける。
映ったのは、葵から貸し与えられている部屋の天井だった。
背中全体に重力を感じる。
私は右手で鈴を握ったまま、ベッドの上に横たわっていた。
上半身を起こすと、ドタドタという騒がしい足音が部屋の外から聞こえてくる。
かと思えば、部屋の扉が凄い勢いでノックされた。
「ひよりさん、いますか」
巧の声だった。
「……はい」
「開けても?」
「どうぞ」
そう答えてから部屋着姿であることに気づいたがもう遅い。
扉を開けた巧はスウェット姿であった。
彼は私の顔を見て、明らかにほっと胸を撫で下ろしていた。
その様子から、先程神社で私の手を取ったのは彼本人だったのだと確信する。
「すみません、変な夢を見てしまって」
照れたように顔を逸らす。
そんな巧に、私は無言で短刀を掴んだ左の掌を見せた。
大きく目が見開く。
私の左の掌には、まるで縦に真っ二つに斬られたかのような赤黒いアザができていたのだ。
「それは短刀の……」
現世は夢。
夜の夢こそまこと。
確か、江戸川乱歩の言葉だった。
実によく今の状況を表している。
しかし巧は理解が追いつかないのか、眉間に深い皺を寄せていた。
「すいません、よくわからないんですが。先程の夢は現実、ということですか? ……いや、待て。今が夢、なのか?」
完全に混乱している様子だ。
「今は夢の中ではありません。ですが先程の神社でのできごとも現実ではあります。ーー恐らく、私たちの魂だけがあの神社に呼ばれたんでしょう。生霊、と言えばわかりやすいかと」
マキちゃんたち三人と別れた後、あの三人が出てくる夢は一度も見なかったが、夢か現かわからなくなるような夢はよく見ていた。
その度に必ずそばには先生がいて、私の手をしっかり握ってくれていたのだ。
モノばかりが徘徊している夜の街を歩いたり、公園で遊んだり、学校を探検したりーー。
私はそれを「夢歩き」と呼んでその時間を楽しみにしていた。
できることならずっと目覚めていたくなかった。
ずっと、先生の手を握っていられると思っていた。
なのに。
「っ……」
私は掛け布団を両手で力強く握り締める。
「痛みますか? 何か治療を……」
「これは永遠に消えません。魂についた傷は死ぬまで消えないんだそうです」
だから、先生と過ごす夜はいつも以上に距離が近かった。
私を傷つけられないよう、傷つけないよう、優しく世界を案内してくれていた。
恐れることなどない。
私が見ている世界は狭く、視ている世界はこんなにも広い。
私だけが異端であるわけではないのだと、そう教えてくれていたのだ。
「いっそ、痛めばいいのに」
左掌のアザを愛おしく思う。
これはあの世界と私が繋がっていたという証だ。
先生がいてくれたという、証なのだ。
「あの時……先生が私の所に戻ってこないなら、私が先生の所へ逝こうと思っていました。先生がいない世界で生き続けるなんて、私には考えられないから。でもーー」
でも、巧に手を引かれ目で制止されて気づいた。
あの時、巧はただ生きることだけを願って私の手を引いたわけではなかった。
先生の遺志を守ろうとしていたのだ。
先生が守ってきた私を、決して逝かせまいとしていたのがあの目だけで伝わった。
それに気づいてしまった途端、私はその手を振り解くことができなくなっていた。
先生が望んでいないことくらい、私にだってわかっていた。
痛いくらいわかっているが、それ以上にあの人のそばにいたかった。
その私の気持ちを知っていて、先生はあんなことを言ったのだろう。
ーー必ず、あなたの元へ戻ります。
「あんなにわかりやすい嘘を吐くほど、私は拒絶されたんですね」
先生は嘘を吐く時だけ人間らしい顔をする。
夢の中で告げられた時もそうだった。
心の底から愛おしそうに私を見つめて、もう会えないのだと私に悟らせているのだ。
愛しているのは私ではない他の誰かのはずなのに、私の気持ちを知っていながらあんな顔を向けて嘘を吐く。
だから何も言えなかった。
何を言っても、もう彼には届かないとわかったから。
「違うと思います」
今まで難しい顔で私の話を黙って聞いていた巧が、片膝をついてベッドに座っている私と目線を合わせる。
「嘘かどうかは俺にはわかりません。でも、彼のあの目は大切な人の幸せを心から願っている人の目でした。だから、あの人は拒絶なんてしていませんよ」
厳しい目だった。
けれどその厳しさの中には、先生の尊厳を守らなければならないという覚悟が垣間見える。
佐々木巧という人は、この目でどれだけの人間を見てきたのだろう。
「月並みな言い方しかできませんが、あなたが彼を信じないで誰が彼を信じるんですか」
……そうだ。
私はずっと自分のことばかりだった。
先生が望んでいることを理解していながら、それを無視し続けていたのだ。
愛しているから、そばにいたいからと、それだけを先生に押し付けて。
まるで小さい子どもだ。
だから葵にも嗤われたのだろう。
先生は全てが終わったら私の元に戻ると言った。
そして私は先生を助けると言ったのだ。
なら、こんなことで悩んでいる暇などない。
「先生のためにできることをしたいと思います」
今はそうするしかない。
どれだけつらい場面を視ることになったとしても、それが先生のためになるのなら視なければならない。
だって、約束したのだから。
「……ごめんなさい。もう、巧さんや葵さんの気持ちを踏み躙るようなことはしません」
私が頭を下げると、巧は私の手を取った。
「俺はあなたが生きるための協力は惜しみません。葵も、あんな言い方ですが同じ気持ちのはずです」
顔を上げると、巧と目が合う。
すると、巧は慌てて目を逸らして手を放した。
「すみません、気安く触ってしまって」
口元を覆って顔を逸らしているが、耳まで赤くなっている。
……乙女か?
「ひよりちゃんが男の人とイチャイチャしてる!」
「こら! シッ!」
と、部屋の出入り口から子どもの声が聞こえてくる。
私は巧を押し退けてそちらへ視線を向けた。
「将平くんと佳奈ちゃん?」
「え?」
私の呼び声に巧もそちらに顔を向けた。
部屋の出入り口では、気まずそうに顔を背けている将平くんと、顔を両手で覆いつつ指の隙間からしっかりこちらを覗いている佳奈ちゃんの姿が視えた。
この二人がここにいられるということは、やはり葵は神社にいるのだろう。
でなければ、二人が自由に行動することすらできないはずだ。
「ご、ごめんね。覗くつもりじゃなかったんだけど」
将平くんはバツが悪そうに俯いていた。
完全に勘違いしている。
「二人がいるんですか?」
今の巧には視えていないらしい。
「将平くんと佳奈ちゃんが」
「葵がどこに行ったか知ってるか聞いてくれませんか」
「神社にいたよ。鬼となんか話してた」
「神社で先生と話してたそうです」
「ということは、あいつはあの場にいたのか?」
その可能性は高い。
あの人のことだ、どこかで隠れて一部始終を見ていたのだろう。
先生と喧嘩などしてなければいいが。
「ねえねえ、ひよりちゃんはあの怖いけど優しいお兄ちゃんと、こっちの真面目そうなお兄ちゃん、どっちが好きなの?」
目を輝かせながら佳奈ちゃんが聞いてくる。
「……どっちでもないよ。ーーそれより、二人とも親には会えた?」
「お父さんには会えたよ。凄いお爺ちゃんになっててびっくりしたけど、夢に化けて出たら泣いて僕に謝ってた。ずっと後悔してたって。会いに来てくれてありがとうって言ってたよ。お母さんは怒ってるのか、一度も会いにきてくれないって悲しそうだったけど」
「私も。お母さんに死なないでって言ったら、子どもみたいに泣いてた。お父さんはもう直ぐ私のそばに行くから、今度はたくさん遊んでくれるって。お母さん、ずるいってまた泣いてた」
「そっか。ちゃんと話せてよかったね」
すると、巧が突然咳払いをして二人がいるであろう方向に声を掛ける。
「ええと、小宮佳奈、さん。大塚芳信のしたことは確かに人として最低だと思う。あの人を許してやってくれとは言わない。ただ、怖がらせるのはやめてやってくれないか」
佳奈ちゃんは子どもらしく、唇をむにゅうと突き出して見せた。
「私、大塚くんも田辺くんも大っ嫌い。……でも怖がらせるのって、あの二人がしてたいじめと変わらないなって思ったの。だから、もうしない。私はあの二人と違うもん」
それを私の口から巧に伝えると、巧は安心したように笑って礼を言った。
あんな人でも、彼にとってはそれなりに良い先輩なのだろう。
「そろそろ葵って人が離れるみたいだから、僕たちも戻るね」
「あ、待って。マキちゃんのことについて、何か知らない? 何でもいいの、何か知ってることがあったら教えて」
マキちゃん、という名前を出すと将平くんと佳奈ちゃんは顔を見合わせて言い淀む。
何か言いづらい事情でもあるのだろうか。
「……ひよちゃんとマキちゃんは似てるんだよ。だからマキちゃんがひよちゃんに視られたくないって気持ち、ちょっとわかる気がする」
将平くんは俯きながらこう言った。
私とマキちゃんが似てる?
「どういうこと?」
「ごめんね、ひよりちゃん。もう行かなきゃ。また会えたら会おうね」
佳奈ちゃんと将平くんはふわりと空間に溶けて消えた。
「なんて?」
「消えてしまいました。……将平くんが、私とマキちゃんは似てるって」
私とマキちゃんの共通点。
あるとするなら……あれしかない。
「茜川小学校の図書室に行きましょう。彼なら何か知ってるかもしれません」
「水龍のことですか」
「はい、マキちゃんは水龍と親しい様子でした。きっと水龍が何か知ってるはずです」
ベッドから降りようと両足を床に下ろす。
と、今までにないほど身体が重く感じた。
その上、貧血のような眩暈までする。
「ひよりさん?」
いつもであれば何事もないように振る舞えていただろうが、今はそれすら難しい。
目を閉じて眩暈に耐えていると、「失礼します」と額に手を当てられた。
「熱がありますね。無理が祟ったんでしょう。今日は休んでください」
口答えを許すような雰囲気ではなかった。
「すみません、少し寝たらよくなりますから葵さんが帰ったらーー」
「今日は、休んでください」
二度も言わせるな、と圧を感じる。
「……はい」
「葵に連絡して風邪薬でも買って来てもらいましょう。俺は朝食を用意してきますから、寝ていてください」
「すみません」
巧は私に笑いかけ、部屋を出て行った。
再び布団に潜り込む。
風邪をひくなど何年振りだろうか。
最後にひいた時、何もできない先生は珍しく心配そうに様子を見てくれていた。
それ以来、私がまた風邪をひかないよう口うるさくなった気がする。
「先生」
何があの人にとっての助けになるのだろうか。
私は左の掌のアザを握りしめた。




