最後の嘘
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彼女の手にあの穢れを纏った短刀が触れる。
考えただけでも恐ろしく、これまで一度も彼女の前であの短刀を出したことはなかった。
視られたくなかったのだ。
あれは間違いなく、今は名の無き男が現世に残したただ一つのよすが。
何があっても彼女の魂を守ると誓ったはずなのに、あの瞬間、男が恐れたのは己の穢れを彼女に視られることだった。
刹那。
彼女の手に触れた短刀は傀儡の手から弾き飛ばされる。
そして轟音と共に傀儡の身体は横倒れになった。
「ひよりさん!!」
呆然と名無し男を見つめる彼女の元へ、あの男が駆け寄る。
先程まで自身の存在を忘れかけていた彼は、間違いなくかつての名無し男の姿であった。
堅物で女が喜ぶことなど何一つ知らず、剣術にのみ励んだ、ただの凡人。
彼は彼女の手を取り軽傷であることを知ると、すぐさま傀儡に向き直り銃を構える。
「ひ、ひ……より、ちゃ」
傀儡が痙攣しながら言葉を発した。
名無し男はそんな傀儡に近づき、無言で打刀を振り上げる。
「わた……私、を……み、ミナイ、デ……」
打刀の刃が首を落とすと、その姿は砂のように崩れ消えた。
しかし、やはりまだ縁までは届かない。
また直ぐにでも復活するだろう。
繰り返し斬ってはまた斬り、隠し神の力を制限させる。
傀儡を斬りつける度まるで己自身を斬っているかのような痛みに耐えながら、男は刀を振るい続けていた。
全ては彼女を守るために。
「先生」
かつて慕った彼女と瓜二つの別人が、名無し男を呼ぶ。
彼女の口から昔の名を呼ばれた時、操られているとわかっていたのに動揺した。
この再演で、またやり直せるかもしれない。
己の罪も穢れも全てなかったことにできるのではないかと期待した。
既に現世での体も名前も、失ってしまっていると言うのに。
人とはなんと浅はかなモノか。
名無し男は刀を鞘に収めた。
「先生、帰ろう。帰って、また一緒に暮らそうよ」
穢れを視たであろう彼女は、前と変わらぬ口調で男に微笑みかけながら声をかけた。
そうだった。
男は気付かされる。
彼女は男が無惨にモノを斬り捨てる姿を見ても、何事もなかったかのように笑いかけていた。
間違いなく視てしまったであろう男の最期も、本来であれば失望してもおかしくないものだったというのに、彼女はそれに触れようともしない。
そんなふうに彼女を育てたのは、紛れもなく男自身であった。
見返りのない愛など存在しない。
これは愛ではなく傲慢だ。
そう言って距離を置いてきたというのに、彼女は何度でも軽々と飛び越え寄り添おうとする。
「私、先生が望むとおりに生きる。だから……だから、そばにいてよ……」
こんな縋る言葉も、無理矢理言わせているような気さえする。
それでも、今にも泣きそうな彼女を突き放すことはできなかった。
何も言わない名無し男に向かって、駆け出しそうになる彼女の手首をあの男が掴んだ。
そっちに行くな、と目で彼女に言い聞かせている。
それが彼女にとって、最善であると信じている目だった。
その姿を見て、名無し男はとある決意をした。
そして口を開く。
「もし、全てが片付いたなら私はあなたの元へ戻ります。そう約束したでしょう」
声を掛けると安心したのか彼女はほっとした表情を見せた。
しかし直ぐにまた不安そうに目を伏せる。
「……でも私、先生のこと忘れるかもしれない」
「夢日記一つで記憶がなくなるほど、あなたと脆弱な縁を結んだ覚えはありません」
そう言ってもなお、彼女の表情は曇ったままだった。
「ひより」
かつて慕ったあの方と全く同じ顔と魂を持った、全くの別人が愛に飢えた女のような瞳で自分を見つめる。
いつの間にこれほど成長したのだろうか。
誰も信用しないというような目を向けていたあの小さな子どもが、このような妖艶な目をするようになるとは思ってもいなかった。
名無しの男は深く息をつく。
彼女の幸せを心の底から願って、最後の嘘を吐くのだ。
「私が嘘を吐いたことがありましたか」
思えば嘘ばかりだった。
彼女を守る為と己に言い訳をして、さも世を悟ったかのような態度で彼女の師としてあり続けていたのだから。
ーーそれでも彼女が私を師と呼ぶのなら、最後までそうであるべきなのだろう。
「必ず、あなたの元へ戻ります」
彼女にはあの傀儡の本体を見つけてもらわなければならない。
それは遠藤真希という一人の少女の最期を視て、遠藤真希の最期の願いを終わらせるということでもあった。
しかしひよりが視て尚、遠藤真希の願いを潰すようなことができるか不安が残る。
優しい彼女が、自分自身と遠藤真希を重ねて間違った道を選択するのではという懸念があったのだ。
だが、彼女は既に独りではない。
手を取って引き留めてくれる人間がいる。
だから男は今度こそ安心して優しい嘘を吐いた。
彼女は涙を堪えるように下唇に噛みつき、拳を握りしめていた。
そして突然、何かを切り替えたかのように柔和な笑顔を向ける。
「信じてる。先生がしてくれたことは、いつだって私のためだったから」
いつもであれば、あなたのためではない、など言って突き放していた男は何も言わなかった。
「今度は私が先生を助けるから」
空が白む。
夜が明けた。
ひよりと巧の透けた身体にも光が差す。
「あるべき場所へ帰りなさい」
名無しの男が声を掛けると、二人の姿はふわりと揺らいで消えた。
その場には静けさが残る。
そんな中、男は落ちた短刀を拾い上げながら問いかけた。
「いつまで隠れているつもりですか」
「へえ、びっくり。僕にまでまだ敬語使ってくれんの?」
おんぼろの拝殿の中からひょっこりと出てきたのは、かつて手にかけた領主と同じ顔と魂を持つ男であった。
敬語を使ったのは完全に無意識だった。
己の中で未だ彼は仕えるべき人間であると認識していることに気付かされ、複雑な思いに駆られる。
「……なぜここへ」
姿が透けていない彼は、実体のある本人なのだろう。
ひよりは隠し神によって魂だけが呼ばれていた。
巧に関しては、あの鈴に呼ばれたのだろう。
どちらにしても、特異体質のこの男ーー榊葵が二人から離れなければ起こらなかった事態だ。
「様子見。儀式の形式とかが見たかっただけなんだけど、面白いものまで見られて満足してるよ」
葵はさも愉快そうに嗤っていた。
他人の黒歴史を嘲笑っているかのようである。
男は無言で短刀を仕舞う。
かつて仕えた男も、全く同じ顔をして他人を嗤っていた。
誰に何をしたところで、翌日には自分のことなど覚えていない。
彼もそれを巧みに利用していた。
ーーただ、凡人だった従者と最愛だったあの方を除いて。
「でもやっぱり堕ちても神だね。僕の能力がほぼ効かなかった。ひよりちゃんの手が切り落とされそうになった時も、さすがに無傷とまではいかなかったし。ーーあれ、絶対視たよね」
傷口に塩を塗るような言い方までそっくりだ。
男はかつての主人にそうしてきたかのように、無表情で返答する。
「わざわざ世間話をしにきたのですか」
「じゃあ簡潔に訊くね。なんでお前まだ消えてないの?」
男は彼の口から出る言葉の鋭さに表情一つ変えない。
最期の時、神に誓った契り。
それこそが男をこの世に留まらせることのできる呪いであった。
しかしあれは神が零落した時点で、既に破綻しているはず。
葵はそのことを指摘しているのだ。
「確かにアレは既にひたすら贄を求めるだけのモノ。自身の存在すらも覚えてはいないでしょう。ただ、現世にこの場所が残っている限り、神に変わりはありません」
どれだけ荒廃し穢れようと、神社という名目でこの場所が存在している限りアレは神なのである。
「ただしアレが神たる理を逸脱した時、土地に限らず完全に堕ちるでしょう。そうなれば私もーー」
十年に一度の初午の日、かの神は人間から贄を捧げられ祀られた。
神は見返りにその後十年の五穀豊穣をもたらす。
それが、かの神が神たる理であった。
しかしアレは今日、己の欲望のままにひよりを襲った。
初午ではない日に贄を自分から狩りに行くことは、理から逸脱した行為である。
仮にあのままひよりが殺されていたら、間違いなく男もその場で消えていたことだろう。
「何を案じているのかは知りませんが、遅かれ早かれ私の存在は霧散するでしょう」
これまでの贄は人為的な導きがあり、その導きに沿って隠し神の元へ渡ってきた。
中尾将平はクラスの噂に、小宮佳奈はいじめの嘘によってこの神社の領域へと導かれている。
それより以前の贄たちも同じようなものだった。
中でも茜川小学校が立地している土地に縁のある、孤立した人間は特に贄に選ばれやすかった。
贄に選ばれた魂は隠し神へと捧げられる。
その魂を導くのが男の役目であった。
男はその役目を果たすことで、神との契りを果たしていたのである。
ーー今から十年前の贄を除いて。
ひよりの魂が贄に選ばれた時、男は初めて契りを破った。
本来であればそこで消えてもおかしくなかったはずだが、隠し神は既に契りのことなど覚えてはいなかったのだ。
それをいいことに、男はひよりと約十年ーー正確にはひよりに認識されるようになってからの約十年ーーを共に過ごした。
結果、贄を得られなかったその年から今日に至るまで、ここらの地域は異常な豪雨による河川の氾濫などの水害に見舞われ、多数の死者を出している。
そうして時は経ち、隠し神は再びひよりの魂を求めて動き出した。
現状、葵の能力の影響を少なからず受けて不安定になっている。
その分、隙ができて土地の浄化はしやすくなっているものの、同時に男の存在も不安定になっていた。
残された時間は少ない。
かつての神を浄化し再び神上げをしたところで、契りを破った男に与えられた道は昇天か消滅のみであった。
「消えてくれんならどうでもいいや。でも一応、夢日記の在り処は教えてくれる?」
葵はあっけらかんとした様子である。
夢日記。
あれはひよりとモノとが縁を結ぶ媒体となっている。
それを葵が欲している理由は、媒体によってひよりに結ばれた全ての縁を抹消するためだろう。
暗に男の存在を彼女の記憶にさえ残したくない、と言っているようなものである。
「随分と慎重なのですね」
「幼女を自分好みの女に育てるような男は、女々しいって平安時代から相場が決まってんだよ」
源氏物語を用いた皮肉に、思わず男は片方の口角を上げて鼻で嗤った。
その表情を見た葵は顔を強張らせる。
気づいてはいけないものに気づいてしまったかのような、そんな表情であった。
「ええ、確かに。ですが彼女を育てた私は自信を持って言えます。彼女が貴方を選ぶことはない。人間の本質を見ようともせず、上辺だけで愛を囁くような男は総じてクズだと、私の経験上そう決まっているのです」
「……へえ。お前が誰と僕を重ねてんのかは知らないけど、あの子を手放す気ないよ?」
「伝える相手を間違えていませんか」
「いいや、間違ってないね。お前に喧嘩売ってんだよ」
「……貴方は何もわかっていない。消えゆく私に何ができると言うのですか」
葵は初めて口を噤んだ。
「夢日記は和魂に預けました。遠藤真希の魂を解放すれば手に入るはずです」
男はそう言って葵に背を向ける。
もう、会うこともないだろう。
だから遺すべき言葉は遺そうと思った。
「私は貴方に対して、憐憫こそ抱きはしましたが怨恨を抱いたことは一度もありませんでした。貴方とひよりの縁を斬ったのは、貴方のためです」
男は葵の返事も待たずに朝日に溶けて消えて行った。
「嘘も大概にしろよ」
葵は誰もいなくなった空間で一人、舌打ちを残した。




