夢か現か
突然、目の前の視界が悪くなる。
ザァザァと途切れる砂嵐の向こう側で、拝殿に向かって項垂れている誰かの姿を見た。
あれは、先生だろうか。
着物もボロボロで傷を負っているようにも見える。
「もしこの祈りが届くのなら……」
悲願するかのような、か細い声が聞こえた。
「あの方を守る機会を、今一度お与えください。さすれば、数百年数千年先もご意向のままに仕えましょう。ーー厚かましく恐れ多くも、証として粗末ながらこの命を捧げます」
彼はそう言って、既に赤黒く染まった短刀を鞘から抜いた。
そこでこれが先生の最期の場面なのだと気づく。
「やめて……!」
これ以上、視たくない。
何も観たくないのに。
両手で掲げられた短刀の刃が、愛おしい人の胸目掛け振り下ろされる。
瞬間、
ーーパァン!!
銃声のような音が空間を切り裂いた。
ーーーーー
「はあ……」
深夜。
親友から与えられた部屋の中、自前のパソコンと向かい合っていた巧は深いため息を吐いた。
入力した報告書の内容を見直していると、改めて自分の無力さを思い知らされる。
情けない。
親友の力になってやることもできなければ、高校生のひより一人守ることもままならないとは。
視えないことは幸せなことだと言うが、これほどまでに視えないことに対して苛立ちを覚えたことはなかった。
まるで、自分だけ生きている世界が違うように感じられる。
どうしたら同じ景色が視られるのか。
どうしたら気持ちが理解できるのか。
一体、自分に何ができる。
思案している最中、ふいに携帯の画面が光った。
『会いたい。会ってちゃんと話がしたい』
『うちが何かしたなら謝るから、別れるなんて言わないでよ』
きっと、彼女は泣いているのだろう。
それなのに自分は、彼女のことよりも目の前の仕事のことばかり考えている。
巧は携帯の電源を切った。
きちんと話す時間すら取らず、こんな終わり方を選択する自分を心の底から軽蔑してくれ。
そう思ってしまうほどに、仕事のことしか考えていたくなかった。
ーーコロン。
と、部屋の外から何か転がるような音がした。
その後直ぐに誰かが階段を降りて行く音がする。
誰か水でも飲みに行ったのだろうか。
そう思って気に留めていなかったが、
ーーバタン。
という玄関の重い扉が閉まる音を聞いて、すぐさま立ち上がった。
時刻は既に午前二時近く。
こんな時間に外に出る予定など聞いていなかった。
部屋を出てみると、ひよりの部屋の扉が開け放たれている。
「ひよりさん、いますか」
そう訊ねてから部屋の中を覗いて見るが、ベッドから抜け出した形跡があるだけで本人はいなかった。
夕食時のひよりの視線を思い出す。
あれは葵を警戒していた。
まさかこの時間に一人で図書館に向かったのか。
とにかく本人の身の安全を確保しなければ。
だが近親者である葵に報告は必要だろう。
そう思い、葵の部屋の扉を叩く。
「おい、起きろ! ひよりさんが抜け出した!」
しかし、向こう側からの反応はない。
部屋の扉を開けようと試みるも、不思議なことにびくともしなかった。
この扉には鍵などついていないのに。
「くそっ!」
巧は一人、ひよりを追って家を飛び出した。
辺りを見回しても既に姿はなかったが、コロンコロンという微かな音だけは聞こえていた。
図書館でひよりが閉じ込められていた時に聞こえた音と同じだ。
音を頼りに駆け出す。
駆け出しながら、ひよりの行動について思考を巡らせた。
もし仮に、彼女が本当に図書館へと向かったのだとしたら。
ここからあの小学校までは道が空いていたとしても車で二十分近くはかかる。
徒歩であれば余裕で二時間はかかるだろう。
本当に小学校に向かっているのか?
いくら葵に悟られたくなかったとしても、こんな時間に一人で二時間歩いて小学校まで行くなんて普通じゃ考えられない。
違うとすれば……操られてるのか……?
しばらくすると、交差点に出た。
そこで初めて辺りの様子に違和感を覚える。
道路には車が一台も走っていなかった。
信号すらも停まっている。
そして、道路の真ん中にはボロボロの服を身に纏い、ボサボサの髪の人たちが呆然と立ち尽くしていた。
その異様な光景を前に、巧は思わず立ち止まって目を凝らす。
スーツ姿のサラリーマンのような格好をした人や、バイク乗りのような格好をしている人、幼稚園児くらいの子どももいた。
危ないですよ。
などと声を掛けようとは思えなかった。
何故なら、そんな彼らの身体はとっくに生きていられるような状態ではなかったから。
ある人は頭が潰れていた。
ある人は腹から臓器のようなものが出ていた。
ある人は手足があらぬ方を向いている。
その光景を目にした瞬間、思わず鳥肌が立った。
悲惨な状態の遺体はこれまで何度か目にしてきたことはあったが、それが虚な表情で道の真ん中に立っているような状況を目の当たりにしたのは初めてだ。
思わず後退りしたその時、
ーーコロンコロン。
転がるような音に目線を上げる。
横断歩道を渡った少し先に、白い着物姿の少女の背中が見えた。
「ひよりさん!」
なぜ、あの着物姿の少女がひよりだと感じたのかはわからない。
しかし無意識に彼女の名前を呼んでいた。
少女は何も聞こえていないかのように、ふらふらとした足取りで進み続ける。
まるでどこかへと誘い込まれているかのようで不気味だった。
できることなら、ここで一度戻って葵に知らせたいが。
鍵のない扉が開かなかった時点で無理なのだろう。
意を決して、横断歩道へと足を踏み出す。
ーーあ……あ……。
ーー痛い……痛い。
ーーたす、け、て。
ーーママぁ。
悲痛な嘆きが耳に入る。
彼らの視線は巧へと注がれていた。
目を合わせたら終わる。
巧は下を向き、彼らの視線や声を振り切るように駆け出した。
渡り切った所の信号機前には『注意! 事故多発!』と大きく書かれた看板が立っていた。
これが……この景色が、葵やひよりが視ている通常の世界なのだろうか。
巧は顔面を蒼白にさせながら振り返らず、息を荒くしながら走り続ける。
その間にも、誰かに追われているような気さえした。
……よく正気でいられるな。
恐怖心に苛まれる一方、どこかこの状況を客観的に把握している自分もいて不思議な感覚だった。
まるで、悪夢の中でこれは悪夢なのだと自覚しているかのようだ。
ーーだが果たしてこれは本当に夢、なのか?
辺りの景色は夢とは思えないほど鮮明だ。
自身の身体の疲労や心臓の脈も感じる。
ただ、二月だというのに寒さは感じず、時折生温い風が頬を掠めた。
聞こえるのは鈴のような転がる音と、自分の息の音と足音のみ。
そして、夜道を歩くのは人ではない何か。
これらが葵とひよりが呼ぶ『モノ』という奴らなのだろうか。
現実と夢とが曖昧で、考えれば考えるほどわからなくなった。
このままでは自分がーー佐々木巧という人物が保てなくなるような気さえする。
いつしか巧の中の「ひよりを助けたい」という気持ちは、「早くひよりに佐々木巧という定義を確立して貰わなければならない」という焦りに変わっていた。
飲まれる。
世界の一部にされる。
抗うように走った。




