父母
小宮家に到着し車を停車させると、真壁は突然自分の両頬を両手で叩いた。
あまりの力強さに、葵の口から思わず「痛そ……」と声が漏れ出るほどである。
「ついてきてください」
そう言って車から降りる真壁。
その後に続き、小宮家の玄関へと向かった。
時刻は十九時近く。
他の家からは生活の音や気配がしているのに、小宮家だけは静まり返っていた。
閉められたカーテンの隙間から漏れ出す光すら見えず、外出しているのではないかと思うほどだ。
玄関先のインターフォンを押す。
が、やはり反応はなかった。
「小宮さんの携帯電話にかけてみます」
そう言って電話をかけている真壁を置いて、葵は塀を軽々と飛び越えて小宮家の敷地内に入り込んだ。
「ちょっと!」
「しっ」
電話をかけている真壁に人差し指を立てて見せる。
そして、窓の方へそっと耳を近づけた。
遠くの方で音楽が聴こえている。
独特な電子音がゆったりと奏でるその曲は、かつて訪れた教会で耳にしたことがあった。
アメイジング・グレイス。
神への賛美と祈りと喜びを謳うこの曲が、これほど皮肉に聞こえたことはない。
ーーまるで、葬送曲のようだ。
そんなことを思っていたほんの数秒の間に、真壁がひらりと塀を飛び越えてきた。
着地後、間髪入れずに警棒を振り翳し、なんの躊躇もなく窓ガラスを突き破る。
「小宮さん! いらっしゃいますか!」
靴のまま家の中へと突き進む真壁。
内気で自信のなさそうな彼女はどこにもいなかった。
葵も続いて家の中へと入り込む。
リビングの電気を点けると、突然白いうさぎが真壁と葵の目の前に現れた。
「あんまり近づくと消し飛ぶから、それ以上近づかないようにね」
葵の言葉を聞き入れたのか、うさぎは葵から距離を置いて走り出し二階へと上がった。
後をついて行くと、小宮佳奈の部屋の前で立ち止まっているうさぎを見つける。
うさぎは小宮佳奈の姿に変わり、泣きながら訴えた。
「パパとママを助けて」
それだけ言うと、彼女は空間に溶けるように消えていく。
葵の特異体質の能力に抗うほどの霊力がない彼女にとって、目の前に現れて助けを乞うことはかなり危険な行動だ。
消滅はしていないようだが、しばらく顔を出すことはできないだろう。
そんな危険を冒してでも父母の助けを求めたということは……。
同じように察したらしい真壁は、意を決して扉を開いた。
廊下からの灯りが部屋の中を照らす。
見えたのは、部屋の中央で手を繋ぎながら横たわる小宮元夫妻の姿だった。
「小宮さん!」
葵は現状を把握するために部屋の電気を点ける。
まず目に飛び込んで来たのは、絨毯に広がっている赤黒いシミ。
小宮元夫妻の手が繋がれていない方の手首を中心に広がっていた。
手首を切ったのか。
真壁は首元から二人の脈を確認すると、持ち合わせていたハンカチを引き裂いた。
「まだ息はありますが出血が酷い。とりあえずこれを傷口に巻きつけてください」
葵は万智を真壁は大和を、それぞれの傷ついた手首にハンカチを巻きつけ力強く縛り付ける。
と、
「……やめて、ください」
弱々しい声が聞こえてきた。
それは大和が真壁の治療を拒否する声だった。
「このまま、死なせて、ください。お願いします」
真っ青な顔で、弱々しく抵抗する大和。
それを見た真壁は、下唇に噛み付いた。
手が小刻みに震えている。
「僕が代ろうか」
声を掛けるも、真壁は首を横に振った。
「やめてください……お願い、します……このまま、生きていても……私たちはもう……」
なにもない。
生きていると信じていた娘は死んでいて、大和自身の余命も少ない。
この先、延命治療をしたところで娘が帰ってくることはないのだ。
彼らに残されたのは、絶望と孤独のみ。
「それでも……私たちに生きろと言うんですか」
縋るような目からは涙が溢れ出す。
そんな目を向けられた真壁は、痛みに耐えるように顔を歪めた。
「救急車を、呼んでください」
なんとか絞り出した真壁の声は、大和の望みとは違う言葉を紡いだ。
葵は言われた通り、携帯電話で救急車を呼ぶ。
「あなたは悪魔だ! 私たちにまだ絶望を味わえと言うんですか……!? 恨んでやる! 死んでも、恨んでやる!」
悪魔と呼ばれた彼女は下唇に噛みつき、大和の呪いの言葉に耐えていた。
彼女の中の声すらも、大和の言葉に便乗するかのように騒ぎ立てる。
ーーほら、あんたには誰も救えない。
助けに来たのに、恨まれて馬鹿みたい。
だから行くなって言ったのに。
「……どうぞ、好きなだけ恨んでください」
ふと、真壁は呟くように答えた。
「恨まれることには慣れています。どれだけ恨まれようと、目の前にある救える命を見捨てて生き続けるよりずっといい」
「偽善者が……!」
「その通りです。あなたの都合なんてどうだっていいし、これから先どれだけあなたが絶望しても私には関係ありません。どうぞ、いくらでも恨んでください。それであなたが生きられるのなら、私はいくらでも恨まれます」
真壁は大和の傷ついた手首を自分の両手で包み込む。
「お願いですから、これ以上佳奈さんを悲しませないでください。彼女から目を逸らそうとしないでください」
肩を震わせながら、必死に泣くのを堪えているのがわかる。
「……あの子の父親なら! 父親らしくあの子と向き合って、最期まで生きて足掻いて見せたらどうなんですか!!」
祈るかのように大和の手をとって、思いの丈をぶつける。
そんな彼女の言葉に目を見開き、大和はゆっくりと隣に目を向けた。
その目に映るのは、同じく青い顔色をして浅く息をしている元妻。
大和は繋いだ手を握り締め、悔しそうに顔を歪めた。
「佳奈が見つかったら……一緒に死のうと、約束していました……余命が短い私が、彼女のためにできるただ一つの贖罪のつもりでした。……私は夫としても父親としても、逃げていたんでしょうね」
大和は一生懸命身体の向きを万智の方へ変え、その細い身体で万智の身体を抱き寄せた。
「すまなかった……! 本当に……すまない……!」
娘に遺された悲しみと、愛した人を遺して逝かなければならない苦しみと後悔。
小宮大和はその全てを、病に侵され小さくなった身体で必死に抱きかかえていた。
やがて、遠くの方で救急車のサイレンの音が高らかに鳴り響く。
Amazing grace, how sweet the sound
(驚くばかりの恵、なんて美しい音色だろう)
That saved a wretch like me
(私のような卑劣な者まで救ってくださる)
I once was lost, but now I'm found
(迷っていたが、道が開けた)
Was blind, but now I see
(見えなかったものが今なら見える)
堪えきれず、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら横たわる二人を見つめる真壁。
ーーやっぱりあんたみたいなグズにこんな仕事、耐えられるわけない。
「そう言わずにさ、もうちょっと様子見てあげたら?」
「え?」
鼻水をスーツの袖で拭きながら、葵の言葉に反応を示す。
「いや、なんでも」
葵はゆっくりと首を横に振った。




