悲しげな道化
軽い浮遊感の後、目を開けると目の前には葵の顔があった。
その端正な顔立ちを見て、戻って来たのだと自覚する。
「おかえり」
笑顔で迎え入れられ、複雑な心境になった。
支えられていた身体を起こすと、目からぽたぽたと雫が零れ落ちる。
それが自分の涙であると気づくのに少し時間がかかった。
「で? なんか視えたのか?」
つまらない演劇でも見せられたかのような、呆れた声が投げかけられる。
私はふらふらと立ち上がり、大塚の目の前に立った。
その様子を他の三人は無言で見守ってくれている。
「な、なんだよ」
さぞかし、この背が高くなっただけのクソガキには私が気狂いかのように見えていることだろう。
「少し屈んで頂けますか」
彼の顔を見上げて静かにそう言えば、大塚は戸惑いながらも屈む。
その憎たらしい顔が私の目線と同じくらいになった時、握り締めた右拳をその横っ面目掛けて放とうと振り上げた。
瞬間、
ーーゴッ。ドサッ!
「痛ってえ!!」
何があったのか、理解できなかった。
突然目の前に大きな広い背中が現れたかと思えば、鈍い音がして大塚が倒れ込み、左の頬を押さえてのたうち回っている。
「うちの従妹、泣かせた罰ね」
そう言って右手を痛そうに振っている葵を見て、彼が大塚を殴ったのだと気づいた。
「おい!! こいつ、公妨でしょっぴけ!!」
大塚の喚き声に、巧と真壁は頭を抱えている。
「君らが困らないんなら、いくらでも逮捕してもらっていいけど?」
両手首を巧に向けて突き出す葵。
「マジでお前……勘弁してくれ」
巧の口から本音が漏れる。
さすがの巧も、部長からの指示に簡単には逆らえないのだろう。
「彼が逮捕されるのであれば、私も今後一切あなた方には協力しません。どうぞ、友膳さんにそうお伝えください」
真壁に視線を向けながらそう言うと、意図を察したらしい真壁は「か、確認します……!」と友膳に指示を仰ぎに行った。
「この場にいたのは俺なんだから、友膳にいちいち確認する必要ねえだろ!」
「自分は友膳警部の部下で、彼も友膳警部の協力者です。それに、彼らの協力なしでは事件の解決が難しいのも確か。優先すべきは長期未決の事件解決だと思いますが」
「だったらその事件、さっさと解決してみせろや!」
口の中が切れたらしく、血液の混じった唾液を吐き捨てる大塚。
一方、葵は私の方に向き直り諭すようにこう言う。
「いい? ああいう奴は顔面殴るより、急所狙うんだよ。ひよりちゃんの手が折れる可能性もあるからね」
なるほど。
「これからはそうします」
「素直でよろしい」
よーしよしと両手でわしゃわしゃ頭を撫でられる。
犬か何かになったような気分だった。
「てんめえら……!」
今にも殴りかかりそうな大塚の傍ら、巧は眉間に深い皺を寄せ額に手を当てている。
「……フリだけでもいいからもう少し申し訳なさそうにしてくれ」
と、小声でぼやいていた。
しばらくして、真壁が恐る恐る戻ってくる。
「友膳警部に指示を仰いだところ、不問だそうです。その代わり、事件解決に尽力するようにと。全責任は友膳警部が引き受けるとのことでした」
大塚が舌打ちをする。
安堵する巧に真壁がこっそりと近づき、
「友膳警部、なんか嬉しそうでした」
と付け加えていた。
暴力沙汰が収まったところで、私は視た記憶を頼りにあの場所へと案内する。
視だ時は左右の方向感覚がわからないほどの雪の中だったが、崖壁に沿って歩けば自然と辿り着けた。
「防空壕、でしょうか」
真壁が中を覗いて呟く。
大塚は無言でライターを持って中へと入って行った。
「三人はここにいてください」
その後を、巧が追って行く。
彼らは数秒ほどで直ぐに戻ってきた。
「小宮佳奈さんと見られる白骨遺体がありました」
巧は真壁に向けて告げていた。
先程まで大口を叩いていた大塚の顔色が悪い。
「……鑑識呼べ。まだ上に残ってる奴らもいんだろ」
「はい」
大塚に言われ、巧は走って境内の方へ上がって行った。
大塚は力無くその場に座り込んで、深いため息と共に頭を抱える。
「あなたに子どもはいますか」
私はそんな大塚に向かって問いかけた。
左手の薬指に光る指輪を見て、ふと浮かんだ疑問だった。
「……ああ」
「もし、あなたの子どもが吹雪の中、あるはずのないものを探して防空壕で一人きりで亡くなったとしたら、どうされますか。同級生に一番大切な物を奪われて、必死に返してほしいと懇願して、それでも返してもらえずに嘘まで吐かれて、寒さと空腹と後悔の中で一人きりで死んだとしたらーー」
「やめてくれ!! 頼むから……やめてくれ……!」
私は泣きながら苦痛に耐えるかのような悲鳴を上げる大塚を見て、少しだけほっとしていた。
「私はあなたのしたことを心の底から軽蔑します。三十年前であろうと、犯した罪に年月は関係ない。あなたの罰は、小宮佳奈さんが迎えられなかった明日を想いながら生きることだと思います。お子さんを大切に」
私の言葉を聞いた大塚は、声を押し殺すように泣いていた。
佳奈ちゃんの遺骨は凍死だったためか、綺麗な状態で残っていた。
運び出された遺骨を前に、葵と並んで手を合わせる。
今度こそ、ゆっくり眠れますように。
祈りを込めて、側にうさぎのぬいぐるみを添えた。
佳奈ちゃんから離れて、警察の対応を見守っているとふいに葵が不思議そうに顎に手を当てて私を見つめる。
「僕、時々わからなくなるんだけどさ、ひよりちゃんていくつなの?」
何を今更。
「普通に十八ですけど」
なんなら今年で十九だ。
「人生何巡目?」
「なんの話ですか」
「いや、普通十代の子が四十のおじさん相手に説教なんてできるわけないでしょ。惚れるかと思った」
好意がないくせに、胸を押さえて真顔でそんなこと言う辺りもタチが悪い。
もし好意のある相手がそれを聞いていたら、絶対に変な期待をしていただろう。
「私はこの世の誰かを愛したりはしません」
きっぱりと告げた。
私に人でなしの恋をしていると言った葵であれば、また怒るのかと思ったが意外にも冷静である。
「それは両親を見て思ったの?」
わかってはいたが、やはり従兄なのだな。
うちの両親が離婚をしていることは知っていても、理由まで知っている人間は親戚でなければいない。
「……父に縋る母を見て、絶対母のようにはなりたくないと思ってました。見返りのない愛なんてない。返されることがないのなら、初めから愛さなければいいと思ってたんです。でも、私も母と変わらなかった。愛してないと言われても、それでもいいと思えるくらい、愛してました」
愛してくれなくても、そばにいてくれたらそれだけでいい。
今だってそう思っている。
葵の顔が見られなかった。
この人はどんな顔をしているのだろう。
「私はもう、他の誰かを愛すつもりはありません。それほどあの人のことをーー先生を愛してます」
真剣に答えたつもりだった。
しかし隣から聞こえたのは、ぷっという短い嘲笑。
横を見ると、肩を震わせて笑っている葵がいた。
「見返りのない愛なんてないなんて、誰が言ったの? 」
常識を逸脱したかのような解答に、呆れているようにも見える。
「愛なんか人の数ほどあるんだよ。そんなふうに言う奴は、そんなふうにしか人を愛したことがないか、愛とはそういうものだと思わせたかったかのどちらかだ」
「思わせたかった?」
「僕の憶測だけど、例えば無償の愛があると知ってしまった時、それを享受できなかった子に惨めな思いをさせたくなかった、とかね」
私は葵の台詞を心の中で反芻し、もう一度あの時のことを思い出す。
父が出て行った日、私の「見返りのない愛があると思うか」という問いかけに対して即座に否定した先生。
あれは、無償の愛を享受できなかった私を憐れんでの答えだったのだろうか。
「惨めな気持ちになった?」
にこにこと笑いかける葵。
本当に性格が悪い。
お前の信じている先生は、そんなやつなんだと言われている気がした。
それに対して、私は首を横に振る。
「いいえ。私は与えられたものだけに目を向けます。与えられなかったものを、他人と比べた所で無意味です。先生はそれを一番よく理解してるはず」
かと言って、無償の愛が存在しないとも断言できない。
私は先生から見返りを求められたことなんて一度もない。
あの人はそれは愛ではなく傲慢なのだと言うが、愛と傲慢の何が違うと言うのだろう。
たとえ見つめている先が私ではなかったとしても、私があの人から受けたものは間違いなく愛だった。
「あの人は私を憐れんだんじゃなくて、他にそう思わせておきたい理由があったんだと思います」
葵の顔から笑みが消えた。
期待外れの答えだったらしい。
「いいよ、そこまで心酔してるなら満足するまで付き合ってあげる。ーーただ、与えられたものだけに執着するのはやめな。ひよりちゃんはあいつとは違う。生きてるんだから、もっと欲しがりなよ」
そっと手を伸ばして、まるで壊れ物に触れるかのように私の頬を撫でる。
適当で自由な人なのだと思っていただけに、その繊細な仕草に驚いた。
本当に私のことを心配してくれているかのような気さえしてくる。
なぜ?
この人にとって、私はなんなのだろう。
わざと気のある素振りを見せたり、怒らせるようなことを言ったり、生きていることを自覚させようとしたり、何がしたいのか全くわからない。
怖かった。
手を取ったらいけない。
何かがそう告げている。
だから、私は彼の手を振り払った。
バシッと音を立てて弾かれる葵の手。
瞬間、彼は私から拒絶されることがわかっていたかのように笑った。
その寂しそうな笑顔を見て、胸がしめつけられるような思いに駆られる。
「あなたは何がしたいんですか」
「可愛い従妹のことを助けたいだけだよ」
「本当のことを言ってください」
「本当のことなんだけど」
「じゃあ、どうして今まで助けてくれなかったんですか」
聞くつもりのなかった言葉が口から零れ落ちる。
助けなんて、そんなもの望んでいなかったはずだ。
愛なんて、先生がいてくれたらそれで充分だったはずなのに。
「君と僕の縁は繋がってた。本来なら、巧と同じようにひよりちゃんが僕のことを忘れることはなかったはずなんだ」
弾かれた自分の掌を見つめる葵。
「でも君は忘れてた。勘違いしないでね、別に責めてるわけじゃないから。ただ、事実として君と僕の縁は切られた。それからは身内からも邪魔が入って、なかなか会いに行くこともできなかった。人を介して、明日香叔母さんに金銭的に助けたいと言ったこともあったけど、突き返されたこともあった。どうしても、手が出せなかったんだ」
掌を握って力無く笑う。
「ひよりちゃんと僕の縁を切ったのは、誰なんだろうね?」
そんなことできるのは先生しかいない。
それを理解していての質問だった。
「それが先生のせいだったとして、どうしてそんなことをする必要が?」
「……榊家の血、或いは魂とかがそうさせる。君が僕を本能的に警戒してる理由と、そう大差ないんじゃない?」
血と、魂?
どういう意味かわからず続けて問いかけようとした時、葵は視線を私から前方へと外した。
それを追うと、巧と真壁が近づいてきているのが見える。
「ま、ひよりちゃんが僕のことをどう思うかは自由だけど、僕は今こうやって君と並んで立ててること自体、結構嬉しく思ってるよ。……榊家について、何も知らないでほしいって願っちゃうくらいにはね」
最後の彼の呟くような言葉は、祈りのようにも聞こえた。
それからはもう、私と会話する気はなくなったらしく巧と真壁の方へ自分から歩み寄って行く。
「もー! 遅いんですけどー!」
先程の彼とはまるで別人のようなふざけた調子で声をかけていた。
その姿が悲しげな道化のように見える。
私は先生の意図も榊葵という人間も、全てがわからなくなっていた。




