先生
ーー気がついた時には、自分の部屋の勉強机に突っ伏していた。
あの後どうなって、どうやって家に帰ってきたのか、全く記憶になかった。
夢だったのだろうか。
一体どこからどこまでが夢で、どこまでが現実だったのかはわからない。
辺りを見回すと、カーテンの隙間から日が差し込むのが見えた。
時計は午前六時を示している。
右手首にアザは残っていなかった。
ーーコロン。
「夢日記は現世と隠世との境界を曖昧にさせます」
背後から音と声がした。
振り返ると、さっきまで夢の中にいた着流し姿の男が目に入る。
色素の薄い艶やかな髪に、整った顔立ちが相まって女性のようにも見えた。
けれど、私の夢日記ノートを持つその手は厚くごつごつとしている。
低い声も間違いなく男のものだった。
「私が視えるのですね」
どうやら反応を示すかどうか試していたらしい。
無言で頷くと、男は悲しそうに目を伏せた。
「あなたは鬼?」
「いいえ、鬼でもなければ人でもありません」
その言葉の意味が理解できず眉間に皺を寄せたが、男は説明をするつもりはないようだった。
「この日記は私が預かります。二度と夢日記は書かないと約束してください」
「マキちゃんたちにはもう会えないの?」
「会ってはいけません。隠し神に隠された彼女たちは、もうこの世の人間ではないのです」
マキちゃんたちのところへ行こうとは思わなかった。
ただ、初めてできた友だちに「さようなら」と言えなかったことが心残りなだけ。
「今までの夢のことは全て忘れなさい」
その言葉に対して、素直に首を縦に振ることはできなかった。
死に対する恐怖を覚えてしまった今、彼女たちに接触するつもりはないが、過去の思い出すらも捨ててしまうのは違うと思った。
「もう会おうとしないから、忘れなくてもいい?」
「怖くないのですか」
「怖いけど、同じくらい楽しかったの」
誰かと一緒に遊んだのは初めてだった。
いつも独りだった私に、手を差し伸べてくれたのはあの子たちだ。
だから忘れない。
忘れたくない。
「それを望むのであれば。あなたを守ることに変わりはありません」
「守ってくれるの?」
「それが私の使命です」
「これからずっと?」
「はい」
「どうして?」
「使命だからです」
私の質問攻めに対し一切の表情を変えず淡々と答える目の前の男は、私の目には頼もしく映った。
なぜなら、男の目には私に対する憐憫も侮蔑も映っていなかったから。
他の大人たちとは違う。
そう感じた。
「あなたのことは、なんて呼んだらいい?」
男は私の質問に一瞬目を見開いた。
その後に見せた男の憂い顔が今でも忘れられない。
見ているこっちの胸まで痛くなる程、苦痛に耐えているような表情だった。
「名前はありません。好きに呼びなさい」
「……じゃあ、先生って呼ぶ」
男は怪訝そうに形のいい眉を潜めた。
「なぜ」
「テキストの問題文みたいに喋るから」
かくして、私と先生は出会った。
この時の自分の発言以降、『以下の問いに答えなさい』という文面が、全て先生のいい声で脳内再生されるようになったのは誤算だったが、彼は私の師としていろんなことを教えてくれた。