腹の底
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葵一人がベラベラと話すだけの食事を終え、ひよりが就寝した頃。
巧と葵は缶ビールを片手に今日あったことを振り返った。
「ひよりちゃん、どんな子だった?」
酒を買うと言ってひよりと巧を二人にしたのは故意だった。
あれも葵なりの気遣いだったのである。
長年の付き合いで察していた巧は、葵に代わって彼女の為人を探っていた。
「警戒心は強いな」
ただ、彼女のこれまでの経験を想像すればそれは無理もないことだ。
あの警戒心の強さはむしろ正常なのかもしれない。
「あの子、笑ってた?」
「いや、愛想笑いもない。幼い頃は違ったのか?」
「いーや。僕もあの子の笑顔って一回くらいしか見たことないんだよね」
「懐いてたんじゃないのか」
「話しかけたことも、かけられたこともない」
「はあ? 結婚するとかなんとかの話は?」
「嘘でーす」
葵は明るく笑いながら手のひらを巧に向けた。
では、なぜ一度も話しかけたこともないような従妹の心配をしているのか。
しかも嘘を吐いてまで彼女の信用を得ようとしている。
「お前、何を考えてるんだ?」
「なにが?」
「いくらあの子が親戚だろうと、お前は無益で誰かのために動くような人間じゃない」
「へえ? 事件に親戚が絡んでるぞって脅して、捜査協力依頼してきた人間の言葉とは思えないね」
確かにそう言われてしまえば言い返せない。
葵の親戚に対する愛情を利用し、協力を得ようとしたのは巧自身だ。
実際にはそんな愛情など存在しなかったわけだが。
しかし、ひよりの名前を出した途端、葵の目の色が変わったのも確か。
葵とひよりの間になにかあるのは間違いない。
「どうして捜査協力に応じた」
「暇つぶしだって言ったでしょ。ーーもしかして、僕のこと疑ってんの?」
にやにやと笑うその目がやけに挑発的に見えた。
どうせお前も他の奴らと変わらない。
そう言われている気さえする。
ここで葵とやり合うつもりはない。
巧は真剣に謝罪し否定することにした。
「聞き方が悪かった。すまん。今回の件にお前が関わってるかは全く疑ってない。ただ純粋にお前の友人として、お前と榊ひよりの関係が気になってるだけだ。接点がほとんどなかったわりに、随分と榊ひよりに固執してると思ってな」
葵は何食わぬ顔で三本目の缶ビールに口をつけた。
「なんかさー、悔しかったんだよね」
「悔しい?」
「僕には一切笑わないのに、あいつには笑いかけてたのが」
穏やかな口調だが、手元を見つめるその目に光はなかった。
親友の口から飛び出た意外すぎる言葉に、巧は思わず面食らう。
これまで彼の口から、誰かに対する想いを聞いたことがなかったのだ。
ましてや、何に対しても怠惰な性格だったこの男の口から、「悔しい」などという単語が出るとも思ってはいなかった。
まさかとは思っていたが、つまりーー
「つまり、お前はあの子が好きってことなのか?」
動揺のせいか或いは酔いが回っているせいなのか、小学生のような質問をしてしまう。
「まーさか。ただ、悔しかったってだけ」
「それは、独占欲っていうんじゃないのか。いや、それよりあいつってーー」
「源氏物語ごっこ、終わらせてあげなきゃね」
にやっと笑い、飲みかけのビールを一気に飲み干す。
「じゃ、僕もう寝るわ」
「待て、話はまだ……」
「おやすみー。電気消しといてね」
足早に二階へと上がってしまう葵。
一人残された巧は頭を抱えた。
「榊葵。まずは彼に捜査協力を依頼してください。重要参考人ではありますが、ひとまず近くに置いておくのがよいでしょう。扱いは親友の君に任せます。ただし、榊葵よりもまず榊ひよりの信頼を得るようにしてください。彼女はいずれ、私たちに必要な人物となります。期待していますよ」
上司からの言葉を思い返してため息を吐く。
落ち着け。
ただでさえ俺には何もない。
慎重に行動しなければ全てが終わる。
まずはこの事件を解決することに専念しろ。
そう自分に言い聞かせて、残っていたビールを喉へ流し込んだ。
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暗い部屋のベッドの中、私は何度目かの寝返りを打つ。
寝具はどれも新品なだけあってふかふかだ。
家具、家電、料理器具、食器、布団。
その全てがほとんど新品だと言うこの家は、叔父が葵のために全て用意していたからだった。
しかしどう考えても、一人暮らしの息子だけを想っての物にしては十分すぎる。
「なんで家族向けの一軒家寄越してきたのか、検討もつかないんだよね」
先程の食卓でのこと。
普段、叔父の会社での仕事で地方勤務が多いと話していた葵。
こちらでの拠点として与えられたこの家を、やはり持て余しているようだった。
「早く結婚しろっていう、親父さんからの圧力以外の何者でもないと思うが」
巧のその言葉を聞いて、最後に叔父と会った時の会話を思い出した。
「君は結婚に適した男性についてどう思う」
コーヒーを飲みながら真顔で問われ、戸惑った。
質問の意図がわからなかったのだ。
「社内になかなか結婚しない男がいるんだ。見た目も稼ぎも悪くはないんだが」
「はあ」
正直興味もクソもなかった。
だが、養って貰っている以上ぞんざいに答えるわけにもいかない。
仕方なく、学校で聞いたことのある話を振ってみた。
「駅近くの土地に持ち家がある男性は、かなり魅力的なようですが」
途端、叔父の目の色が変わった気がした。
「君もそう思うのか」
「……将来を考えたら……安泰かと」
「そうか。検討してみよう」
その時は何のことかわからなかったが、今になって理解した。
この家は地図で確認すると、最寄り駅まで徒歩十分ほどの場所に立地している。
ゾッとした。
まさかとは思うが、叔父は手っ取り早く息子と私をくっつけさせようとしているのだろうか。
再び寝返りを打ち、枕元に置いた土鈴に手を伸ばす。
私は誰との結婚も望まない。
けれど叔父が葵と私の結婚を望むのなら、拒むことは難しいだろう。
彼との結婚は受け入れ難いが、もし先生との生活が保証されるのであれば……。
ーーしばらくすると、部屋からは布団が擦れる音の代わりに、小さな寝息が聞こえるようになった。