鬼
重たい瞼を開けると、自分の部屋の天井が目に入った。
全部、夢だったのだ。
そう理解した時、私の心に残ったのはただひたすら虚無だけだった。
あの時、もし鬼に斬られていたとしても、現実であってほしかった。
そう願ってしまうほど、あの頃の私は夢の中の世界に固執していた。
ああ、日記を書かなきゃ。
勉強机の前に座った。
机の上の時計は午前二時を示していた。
草木も眠る丑三つ時だというのに、リビングから親の泣き声と怒鳴り声が聞こえてくる。
一体いつまで喧嘩を続けるのだろう。
そんなことを思いながらノートを開いた。
鉛筆を右手で持つ。
そこでふと、右手首に視線がいった。
誰かに強く掴まれたような青黒いアザ。
手の形がくっきり残っていた。
ーー待ってるから。
マキちゃんの台詞がよぎる。
私は親に見つからないよう、こっそりと家を出た。
家を出ると、どこからともなく祭囃子が聞こえてきた。
楽しそうな太鼓に笛の音があの神社へと誘った。
境内へ続く長い階段の下。
そこで、マキちゃんたちは待っていた。
「ひよりちゃーん! こっちこっち!」
「遅いよ!」
カナちゃんとショウヘイくんが手招きする。
白杖を持たないマキちゃんが、一目散に駆け寄ってきた。
「上の境内でね、お祭りがやってるんだよ! みんないるから、早く行こう! 鬼が来ちゃう前に!」
そう言われて、境内の方を見上げた。
確かに祭囃子は境内から聞こえてくる。
出店の屋根のようなものも見えた。
ただ、人の声が聞こえて来ない。
逆に言えば、聞こえて来るのは祭囃子の音だけなのだ。
あそこに行ってはいけない。
本能的にそう感じた。
そんな私の右手首を掴んで、無邪気に笑うマキちゃん。
「ずっと一緒だよね?」
そこで初めて恐怖を覚えた。
独りになる恐怖ではなく、純粋な死に対する恐怖。
胸に染み落ちたその感情は、マキちゃんの手を振り払わせた。
「どうして? 戻ったって、ひよりちゃんはずっと独りぼっちだよ?」
振り払われた手が、なんの迷いもなく今度は私の頭に伸びて髪を撫でる。
全て今までどおりのことなのに、なぜだか今はマキちゃんの所作一つ一つに違和感を覚えてしまう。
そしてその違和感はさらに恐怖心を煽った。
「寂しかったんだよね。私たちがずっと一緒にいてあげるからーーだから、一緒に逝こう」
瞬間、どこからともなく大人の声が聞こえてきた。
ーー大橋さんのところのひよりちゃん、不気味じゃない?
ーー挨拶もしないし、にこりともしないわよね。
ーーうちの子にはあまり近付いてほしくないわ。
近所の同級生の親の心ない言葉。
幼いながらにも、言葉の意味はしっかり理解していた。
あの人たちにとっても、私は必要ない存在なのだ。
そうだ、私は戻っても独りだった。
別に私が消えても誰も困らない。
親さえ気づかないかもしれない。
諦念が恐怖を塗り替えた。
私を必要としてくれる人はどこにもいない。
むしろ私は、ここにいてはいけない人間なのだ。
マキちゃんの手を取ろうと手を浮かせた。
すると、
ーーコロコロン。
また、あの軽やかな音がしたかと思うと、私の耳を誰かが後ろから優しく包んだ。
「聞かなくてよろしい」
白檀の香り。
優しく温かみのある低い声。
見上げると、あの男が私の耳を塞いでいた。
「孤独は悪ではありません。それでも寂しいと思うのなら己が手で切り開きなさい。これはあなたの人生なのですから」
男は後退るマキちゃんから視線を外さず、淡々とこう言った。
耳からそっと手を外すと、私を庇うように一歩前へ踏み出す。
男の下駄がからんと鳴った。
「私がいいと言うまで、目を閉じて耳を塞いでいなさい」
いつの間にか、マキちゃんたち三人はいなくなっていて、祭囃子も聞こえなくなった。
階段前には狐の面を被った、ぼろぼろの着物姿の女がぽつりと立っている。
「おいで……おいで……」
か細い声で、私を手招く女。
すると、背後の階段にマキちゃんたち三人が姿を現した。
顔は見えない。
ただ、じっとこちらの方を向いて、無言で女と同じように手招いていた。
その姿があまりにも不気味で、再び恐怖が蘇る。
全てから逃げ出したかった私は、男の言う通り目を閉じ耳を塞いだ。
「よろしい」
優しげな男の声が指の隙間から聞こえて来る。
声は優しいのに、男の纏う空気は肌を刺すようにピリついていた。
これが殺気だと知ったのは、しばらく経ってからのことだった。