あおいにーに
ふらふらと立ち上がり、覚束ない足取りで家路につく。
まだ、あの痛みが残っているような気がした。
吐き気を催す程の痛み。
思い出すだけで気持ちが悪い。
「ねえ、大丈夫?」
道すがら、誰かに声を掛けられた。
視線だけそちらへ向けると、口だけが宙を浮いている。
「とても顔色が悪いわ」
鮮やかな紅いリップで彩られた唇から紡がれる言葉。
頭に直接響くようだった。
この道を通る時にいつも目にしていた向こう側のモノ。
先生といる時は決して声など掛けて来なかったのに、今になって掛けてくるのは、澪と同じく好機と思ってのことに違いない。
「放っておいて」
返事をしたのがまずかった。
紅い唇は弧を描いて、私の後をついてくる。
「嫌なことがあるのなら、逃げ出しちゃえばいいじゃない」
「こんな世の中、生きていても苦しいだけでしょう?」
「あの橋から飛び降りたらきっと楽になれるわ」
「それだけで、なにも気に病む必要なんてなくなるの」
「ねえ、ほら。ほら!」
立て続けに聞こえてくる、甘く嬉々とした声。
真下を向きポケットの中の土鈴を握りしめて、足早に橋を渡る。
少しでも橋の下を視界に入れてはいけないと思った。
きっと、今の私は引きずり込まれる。
「あっ、ねえねえ! 君!」
「放っておいてったら!」
声の主に怒鳴り声を上げてから気づいた。
さっきの背後からの声は唇の声じゃない。
振り返ると、驚いた顔の男が二人立っていた。
「あ、ごめん。これペットだった?」
声を掛けてきたらしい男の右手には、あの唇が握られていた。
かと思えば、歪んだ唇はたちまち溶けるように消えていく。
「うるさそうだったから消しちゃった。目障りだったしいいよね」
にこにこと愛想のいい笑みで近寄ってくる男。
その少し後ろからもう一人、仏頂面の男がやって来る。
「やっぱり、ひよりちゃんだ。久しぶりだね! 僕のこと覚えてる? ほら、昔よく一緒に遊んだ葵お兄ちゃんだよ!」
私の顔を認識した途端、顔をぱあっと明るくさせ、ついでにテンションも爆上げさせた男。
しかしその顔に見覚えはない。
あおいおにいちゃん?
兄がいた覚えはないが、私の名前を知っているということは知り合いなのだろう。
黙って考えていると、あからさまに残念そうに肩を落とす。
「そっかー、最後に会ったの幼稚園生だったもんね。こーんな小さくて、『あおいにーに』って呼んでくれてたんだよ。将来はにーにと結婚するーってーー」
「どなたでしょうか」
早く会話を終わらせたくて台詞を遮った。
「冷たいなあ。君のお母さんのお兄さんの息子。つまり従兄ね」
幼少期の頃を思い出してみる。
が、全くと言っていいほど彼の存在が思い出せなかった。
かといって、彼が嘘をついているとも思えない。
確かに叔父には息子がいると聞いたことがあったし、どことなく顔も叔父と似ている。
それに何より、彼が向こう側のモノが視えるという点も叔父から聞かされていた情報の通りだった。
「ご用件は」
「久しぶりに会えたのに、そんな冷たい声出さないでよ。葵にーに、悲しくなるから」
「突然すみません。少しお話できませんか」
私と葵の間に割って入った無愛想な男は、ジャケットのポケットからあるものを取り出して私に見せた。
警察手帳だった。
「……何かあったんですか」
「聞きたいことがあるんです。彼には捜査協力をしてもらっています」
改めて葵の顔と警察の顔を眺める。
霊視能力のある葵に捜査協力を依頼して、更に私にまで話が聞きたいということは……。
だとしたらこの二人、先生を助けるために利用できるのでは。
が、本当に信用に足る人物なのだろうか。
「近くに私の家があります。そこでよければ」
仮に目論見が外れたとしても、これ以上最悪な事態になることなどないはず。
折れた心を無理矢理奮い立たせ、二人を家へと案内した。