涙と空と雲
落ち着いてから、制服に袖を通した。
高校三年生の二月は授業なんてない。
それでも私には行くべき場所があった。
いつも通る道。
いつもいる向こう側のモノ。
いつも通りの風景に、先生だけがいない。
学校に着いて向かった先は屋上だった。
「澪ちゃん、いる?」
携帯を片手に、誰もいない空間に問いかける。
『いるよ』
背後に気配を感じた。
振り返ると、澪が立っていた。
『こんな時間に来るなんて珍しいね』
『今日は先生いないんだ?』
嬉しいのか、続け様に文字が打ち込まれていく。
「先生、いなくなっちゃった」
それを聞いた澪は、ただ事ではないと察したらしい。
無言でいつもの場所を血だらけの左指で差した。
澪が飛び越えたフェンス。
その手前が私たちのいつもの場所だった。
そこへいつも通り座り、フェンスを背もたれにして周りを眺める。
ここから見える貯水タンク。
その足元で、先生はいつも本を読んでいた。
私と澪の会話に混ざったことは一度もない。
先生は澪を警戒していたし、澪も先生を怖がっているようだった。
でも今、その先生はいない。
いつでも斬れるよう刀を側から離さない先生は、どこにもいなかった。
どうして先生がいなくなったのかわからない。
先生の言っていた言葉の意味全てが、理解できなかった。
状況を整理するためにも澪に一通り話してみたが、わかったことはこれだけ。
「誰も救えないのに、ただ見続けることが辛かった。何で私だけ見たくないものを見続けなきゃならないのって思ってた。でも、それって先生がいてくれるから、それだけで済んでたんだよね」
膝を抱えて、顔を埋める。
いつから、勘違いしていたのだろう。
私は先生がいなければ、傍観者ですらいられなかったはずだ。
それをいつの間にか、先生の存在すらも私の能力の一部だと思っていた。
澪のことも、もし何かあっても先生がいるから大丈夫だとどこかで安心していた。
私は特別でもなんでもない、ただの人間なのに。
いつからこんなにも先生に甘えてしまっていたのだろう。
それが嫌になって、私から離れてしまったのだろうか。
これから、どうやって生きたらいいかわからない。
『私も、ひよりちゃんにとっては見たくないものなんだよね』
今まで私の話に耳を傾けるだけだった澪。
入力されたその文面に、息を飲んだ。
「ごめん、違うの。私、澪ちゃんのことを本当に助けたいと思ってる。でも、どうしたら助けてあげられるのかわからないの」
卒業してしまったら、ここに通うことはできない。
もしかしたら、二度と会えないかもしれないのだ。
今なら、救えないのなら手を出すなと先生に言われた意味がよくわかる。
『ひよりちゃん、私のこと救ってくれるの?』
ふいに、澪が纏う空気が変わった気がした。
「……うん」
『それなら、前からわかってたでしょ?』
『ずっと、私と一緒にここにいて』
瞬間、澪が近づいて左手で私の右肩を掴んだ。
「うっ……あぁっ……!!」
身体の右半分に焼けるような激痛が走る。
思わず呻き声を上げながら横に倒れた。
右半分の身体の、骨と肉と臓器がぐちゃぐちゃにされるような感覚に吐き気すら覚える。
「やめて!!」
必死の思いで澪の手を振り払った。
全身から脂汗を噴き出しながら、乱れる呼吸を整える。
あの痛みが、澪の感じている痛みなのだろうか。
自然と消えていく痛みに耐えながら恐怖を覚える。
私には、無理だ。
あんなものを常時感じている澪を助けるなんて、そんなことできない。
『ずっと考えてたの。ひよりちゃんと一緒にいられる方法。ひよりちゃんも、私と一緒になればいいんだよ』
『痛いのは慣れれば我慢できるの。でも、寂しいのは嫌。だから、いろんな人をここから落とそうとしたけど、みんな一緒にはなれなかった』
学校の噂で、誰かが話しているのを聞いたことがあった。
この学校の屋上で自殺した女子生徒が、寂しがって今も一緒に死んでくれる子を探しているらしい。
既に何人か自殺未遂をしているから、屋上の扉は南京錠で固く閉じられているのだと。
私が来た時には南京錠などされていなかったが。
『私を見つけてくれたのは、ひよりちゃんが初めてだった。ひよりちゃんなら、私の気持ちわかってくれるよね?』
「……わからない」
『え?』
「誰にも、澪ちゃんの本当の苦しみや寂しさはわからないよ。だって、誰も澪ちゃんじゃないんだから」
『だから、私と一つになろうよ。先生ももういないんだから』
再び、澪が私に寄ってくる。
逃げなきゃ、殺される。
頭では理解しているのに、恐怖のあまり腰が抜けてしまい、ひたすらフェンスに背中を押しつけることしかできない。
『私なら、ひよりちゃんのことわかってあげられるよ。大丈夫、痛いのはすぐに慣れちゃうから』
地面に落ちた携帯に入力されていく文字。
迫ってくる澪の左手。
先生。
ぎゅっと目を瞑った。
ーーコロコロン。
聞き覚えのある音に、そっと目を開けた。
制服のポケットに入れていた、先生の土鈴が地面に落ちている。
「……あ……が……」
澪はそれを見て、後ずさった。
『なんで』
『なんでいるの』
『いなくなったんじゃないの』
『消えてくれたんじゃないの』
『いやだやめて』
立て続けに、携帯に文字が打たれていく。
未だ立ち上がることができない私は、地面に手をついて呆然と澪の様子を見つめることしかできなかった。
明らかに何かに怯えている様子だった。
しかし、その何かは私には視えない。
ーーコロン、コロン。
地面の土鈴は、意思があるかのように転がり音を奏で続けている。
『やめてよその音やめてやめてやめてやめてやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ』
「あ゛あ゛ぁぁぁぁぁ!!!!」
突然、頭を抱えて奇声を発したかと思うと、澪はそのまま姿を消してしまった。
ーーコロロン。
「……せんせ……?」
もう動かない土鈴に手を伸ばし、そっと両手で包み込んだ。
「……先、生……せんせぃっ……!」
さっきも泣いたはずなのに、涙と鼻水がぼたぼたと地面を濡らす。
寝転び、子供のように泣きながら思った。
いやだ。あんな別れ方、絶対にいや。
でも、どうすることもできない。
仰向けになって、滲んだ空を見上げる。
空は青く、雲は白い。
当たり前のことが、なぜだか馬鹿みたいに悲しかった。